横浜市長としての飛鳥田一雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:03 UTC 版)
「飛鳥田一雄」の記事における「横浜市長としての飛鳥田一雄」の解説
飛鳥田は横浜市長として、革新首長のリーダーとして活躍し、地方自治制度に関する理論家としても注目された。また、公害の規制(当時の法定値を1/2~3/4下回る磯子火力発電所の煤煙規制、当時大気汚染の主力であった日本鋼管(現JFEホールディングス)京浜製鉄所を沖合に移転する社内計画への対策協議会設置を神奈川県・川崎市に呼びかけ)や公園などの社会資本の整備といった面でも市長としての手腕を発揮した。さらに大規模な公共事業を嫌う革新首長が多い中では異例とも言える横浜市六大事業を策定し、大規模都市にふさわしいグランドデザインを提示し、際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げたとも評価できよう。 六大事業とは、 みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業 これと連動した金沢地区埋め立て事業 港北ニュータウン事業 幹線道路事業 地下鉄事業 ベイブリッジ事業 を指す。 とりわけ、みなとみらい事業については、当時、高い稼動状態であった三菱重工横浜造船所を立ち退かせるものであったため、当初は実現が困難と見られていたが、飛鳥田の死後、計画通り完成した。 飛鳥田が取り組んだ横浜市内の幹線道路整備に際して、横浜市電を廃止することを決断した際に飛鳥田は「マイカー族のエゴにやられちゃったよ」と述懐していたという。 また飛鳥田は「横浜公園にプロ野球の公式戦が出来る野球場を造りたい」「その新球場をプロ野球チームの本拠地としたい」と考え、戦前から在った横浜公園平和野球場の建て替えを決断する。新球場建設のために飛鳥田自身も神奈川県内の企業などを回って計画の説明などを行い、横浜市議会でもスタジアム運営に関する案件などを可決するために努力を払った。更にその当時、川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の横浜への本拠地移転に飛鳥田が自ら動いたことでも知られている。そうした経緯で現在の横浜スタジアムの完成に漕ぎつけた。その横浜スタジアムこけら落とし試合となった1978年4月4日の大洋ホエールズ 対 読売ジャイアンツ第1回戦に際しては、市長を辞職して日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている。 しかし、一方で、社会党出身であることから市職員労組に甘く、市職員給与の大幅賃上げなどで財政を逼迫させ、また、当時、全国の政令指定都市中、最低レベルであった環状道路の整備状況なども解決できぬまま任期を終えた。自宅付近に鉄道駅がないことを理由に、国鉄根岸線に磯子駅を設置させたという噂もあった。
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