検疫所創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:05 UTC 版)
1895年(明治28年)4月1日、勅令第33号"臨時陸軍検疫部官制"公布、似島の字長谷に臨時陸軍似島検疫所として開設が決定した。似島に検疫所が置かれたのは、宇品港のすぐ沖合に位置していたからである。 後藤新平臨時陸軍検疫部事務局長の指揮のもと彦島検疫所(下関市彦島)・桜島検疫所(大阪市桜島)とともに整備され、うち似島は2ヵ月の突貫工事で建設され、同年5月30日完成、同年6月1日開所し検疫業務に入る。開所直後である同年6月7日には北里柴三郎博士が新しい熱気消毒用機器である蒸気式消毒罐の実験のために訪れている。また、同敷地内に付属の避病院(伝染病隔離施設)も設けられた。広島市内には分院もつくられ、その中の一つである似島避病院舟入分院はのち市に払い下げられ、現在は広島市立舟入市民病院として存続している。 なお日清戦争は同年4月21日終結、同年4月27日大本営を京都に移し明治天皇は広島出発したことから、検疫所の運営は皇族および主要高官が広島を離れたあとに開始したことになる。 これら検疫事業は当時前例のない規模のもので、特に似島検疫所施設群は当時世界最大級のものだった。この検疫事業は当時海外でも評価が高く、例えば第3代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世から激賞されている。ただこの間、検疫所職員の中で53人も病気感染による死亡者を出しており、その慰霊碑は現在市内東区饒津神社境内にある。 対策が実り流行を過ぎた1895年9月ごろにはコレラ患者が激減している。膨大な人員の検疫を成功させた後藤は検疫部長である児玉源太郎陸軍次官から大きく評価され、その後第4代台湾総督に就任した児玉によって民政局長に抜擢されることになる(児玉・後藤政治)。また、この時期に乙未事変関係者の三浦梧楼達がここで検疫を受けていた最中に逮捕されている。
※この「検疫所創設」の解説は、「似島検疫所」の解説の一部です。
「検疫所創設」を含む「似島検疫所」の記事については、「似島検疫所」の概要を参照ください。
- 検疫所創設のページへのリンク