栃木・岩鼻の動き
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栃木町における行動・戦闘の経過については、さまざまな記録が錯綜して定説を見ない点も多い。以下、長谷川 2015 に拠って記述し、他の資料は必要に応じて注する。 竹内らは軍議の結果、栃木町を管轄する足利藩栃木陣屋(現・旭町)に数名の浪士を派遣し、軍資金の要求をすることにした。一行の中から選抜された、高橋亘、高田国次郎、斎藤泰蔵、吉沢富蔵、山本鼎の5名が、鍋山村から栃木陣屋に向かった。また、道案内として大谷国次が加わったともされる。 以上の5名乃至6名は栃木陣屋を訪ねて軍資金を要求した。日向野 1974 によれば要求額は1,000両であり、陣屋では500両に免じることを求め、そのうち100両を明朝渡すと回答して400両を直ちに差し出したという。一方 栗原 1943 によると、陣屋は1,500両の調達を約束し、そのうち500両を即座に支払ったとされている。高橋らは了承して前述の脇本陣押田屋に宿泊した。翌日以降、陣屋を預かる郡奉行善野司をはじめとする郷士は対策を練り、資金要求をかわしながら高橋らを接待する一方、関東取締出役及び吹上藩有馬家にこの事態を通報した。 岩鼻陣屋詰の関東取締出役木村喜蔵(機蔵、樾蔵、越蔵、掛蔵などとも)は、12月9日、農兵隊を率いて鎮圧のために出動した。同出役渋谷和四郎(鷲郎とも)は熊谷へ出張中だったが、急行して木村と合流した。高崎藩は同9日付の廻状で、市中の老人・子供・女性を寺院へ避難させるよう指令するとともに、藩境の警備を強化した。 翌12月10日、幕府は足利藩、館林藩、壬生藩の三藩に賊徒取締を、宇都宮藩には真岡代官所(代官山内源七郎)の警備を命じた。この鎮圧のために兵を出した藩の数は総計61にのぼるとも言われる。栗原 1943 によれば、足利藩兵は佐野、宇都宮藩兵は茂呂宿(現栃木市岩舟町和泉)、古河藩兵は藤岡町、吹上藩兵は皆川口(現栃木市皆川城内町)、壬生藩兵は栃木町、館林藩兵は渡良瀬川渡船場、伊勢崎藩兵は例幣使街道その他、前橋藩兵は利根川渡船場および中山道各宿、川越藩兵は利根川渡船場その他奥羽街道、結城藩兵は鬼怒川筋、下館藩兵は鬼怒川・小山宿・奥州街道、関宿藩兵は栗橋渡船場、六浦藩は皆川陣屋、彦根藩兵は堀米陣屋(現佐野市堀米町)、足利藩兵は栃木陣屋をそれぞれ固めたという。 また同10日夕刻、鉄砲隊750名をはじめとする農兵隊1,000名余(およそ1,200名とも)が佐野天明宿(現佐野市)に到着した。取締出役からは渋谷と木村のほかに、宮内左右平(啓之助とも)、望月善一郎、馬場俊蔵、渡辺慎次郎らが出動して隊の指揮を執った。渋谷はかねてより村々から徴発した猟師たちを主体とする鉄砲隊を組織し、調練をさせていたが、農兵隊はそれに加え、渋谷が手懐けていて忠義心の深い博徒なども含んで構成されていた。 近傍各村にも情報は広められ、沼和田、片柳、薗部の各地で自衛的に警備が固められた。
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