林忠正の交遊
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30年にも及ぶパリを中心とした仕事の中で、林は世界中に友情を培った。日本人らしい濃やかな心情、巧みなフランス語の話術は、信頼と友情を尊敬にまで高めた。またルイ・ゴンスや、「ジャポニスム」の用語を作ったフィリップ・ビュルティ (Philippe Burty) など多くの研究者を助けることで、彼らからの援護も得ている。エドモン・ド・ゴンクールの晩年の2つの著作『歌麿』『北斎』は、林の助けによって刊行された。世界中を旅しながら、各地の港から資料を送り続け、船中で構想を練った。難しい日本語を懸命に翻訳、口述している林の姿を、ゴンクールは日記に書き留めている。以下の証言は、その交流の一例である。 林が言うには、「何せ哲学的な観念については私たち日本人はどこか収集家に似ているのですよ。つまりガラスケースを持っていて、その中には完全に引き付けられる物しか入れないのですが、かといってそのひかれる理由そのものは、あまり詮索しない収集家(コレクター)なのですよ。」、なんとも独創的な考察だ。 — エドモン・ド・ゴンクール、『ゴンクールの日記』(1885年3月19日付、斎藤一郎訳、岩波書店、新版 岩波文庫下巻)より、訳文は一部改変。 ドイツのフライブルク大学教授エルンスト・グロッセ(ドイツ語版)との交遊は、林の死後まで続いた。帰国の時、グロッセから受けた数々の援助に対して、もはや報いる力を失った林は遺書の中で、自分のコレクションの中から、グロッセの意のままに美術品を選ばせ、低い値段で譲ることを妻に命じた。来日したグロッセは700点もの工芸品を選び、2万円余の値段で譲り受けた。ベルリン東洋美術館は、この友情によって誕生した。 在留日本人も少ないパリに独り生きた林は、世界を巡り、美術品を売り捌きながら日本を紹介した。その世界的な視野を以って、祖国の近代化にも力を尽くした。しかし、悪口雑言は残っていても、林忠正を知る人も、真に理解する人も少ない。彼の仕事は「浮世絵を世界に紹介し、印象派の作品を初めて日本にもたらした」だけではない。19世紀末のパリの華やかな時代と同時代の、決して“明るくなどない明治”を知る上でも、常に「世界の中の日本」を見据えて、日本の真価を守った林忠正の識見は貴重なものであろう。
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