松竹・不二映画・新興時代
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映画デビューから5年間の間に頻繁に所を変える迷走ぶりであった高田だが、1929年(昭和4年)7月、今度は松竹蒲田撮影所に移籍。岩田祐吉らに代わる二枚目俳優として起用される。同撮影所の初主演作品は同年の小津安二郎監督映画『大学は出たけれど』であり、大学は出たけれど不景気時代で就職口の無い青年を演じ、田舎から田中絹代扮する婚約者を連れて上京して来た母親との間に悲喜劇を巻き起こすという内容である。小品ではあったが、小津一流のユーモアとペシミズムを盛った佳作と言われ、高田は先の良い第二のスタートを切る。以後、八雲恵美子、及川道子、栗島すみ子、田中絹代らと共演し、鈴木傳明、岡田時彦と並んで「松竹三羽烏」と称されるようになる。1930年(昭和5年)1月、岡田と共に幹部に昇格し、多数の作品に主演した。 1931年(昭和6年)9月、鈴木が不二映画社を創立するに及び、岡田と共に同撮影所を脱退して参加する。1932年(昭和7年)3月、同撮影所を@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}豊島園に設置[要出典]。この間に数本の映画に出演した後、解散目前の同年末に岡田と共に新興キネマ太秦撮影所に移籍する。1933年(昭和8年)、木村恵吾監督映画『街の青空』が入社第1作。しかし1934年(昭和9年)1月、岡田が急死。同年3月、久米正雄の人気小説を田坂具隆監督が映画化した『月よりの使者』で、当時人気絶頂だった入江たか子と共演。入江扮する高原療養所の看護婦と恋を囁く胸を病む青年を演じ、この映画の大ヒットと共に絶大な人気を得た。
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