松商学園短期大学時代
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博士課程を単位取得退学後の1986年(昭和56年)4月、長野県松本市にある松商学園短期大学商学科の講師に着任。地域誌について地理学の立場から研究し、従来は地域コミュニケーションの観点から論じられた地域誌を経営面から分析した。一方で1987年(昭和57年)から1988年(昭和58年)にかけて一橋大学の竹内啓一研究室に出入りし、『Geography, the media & popular culture』の翻訳作業(読み合わせ)に打ち込んだ。なお、竹内がローマ日本文化会館館長を務めるために1988年10月から3年間渡欧したため、その間は山田が出版社とのやり取りに奔走したという。 1989年(昭和58年)には東京大学に博士論文『わが国におけるCATV(有線テレビジョン)の存立基盤 ―空間的展開と地域的特性』を提出し、理学博士の学位を受ける。1990年(平成2年)4月、山田は助教授に昇任。1991年(平成3年)から1995年(平成7年)にかけては、上高地自然史研究会で事務局を担当した。1992年(平成4年)、ようやく『Geography, the media & popular culture』の訳本が古今書院から『メディア空間文化論 ―メディアと大衆文化の地理学』として出版され、翌1993年(平成5年)には初版第2刷が発行された。 1989年5月には日本新聞学会の春季研究発表会を、1993年10月には経済地理学会の地域集会や日本ポピュラー音楽学会第5回大会を、1994年(平成6年)10月には日本国際地図学会の第29回地方例会の開催を、松商学園短期大学で受け入れている。また、山田はユタ日報松本研究会の設立呼びかけ人に名を連ね、1994年には『松商短大論叢』へ「北米日系新聞関係日本語文献表(第1稿)」を、『「ユタ日報」復刻版』第1巻には「概説『ユタ日報』-その歴史と意義」を寄稿した。
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