杵築城攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 23:54 UTC 版)
豊後杵築(木付)領の杵築城は1599年(慶長4年)に領主の福原直高が改易され、続いて1600年2月27日に丹後宮津城主の細川忠興に飛び地として与えられた。忠興は家臣の松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせ、4月15日には忠興自身が現地を巡察し、黒田如水と会談して来たるべき紛争への対応について協議した。 26日には会津討伐の知らせが現地に届き、忠興は急遽東上していった。8月28日に加藤清正より大友義統の豊後上陸の知らせを受けた杵築城では戦闘準備が開始されると共に忠興への急使が派遣された。杵築城には忠興の家老である松井康之が在城していたが、度重なる豊臣奉行衆や大谷吉継からの西軍への参加要請に応じないため、8月4日輝元と宇喜多秀家は明け渡しを命じる書状を発し、臼杵城主の太田一吉の子の一成を使者として派遣された。しかし、13日に現地を預かる康之はこれを拒絶した。 9月10日夜、立石より杵築城攻撃に向かった大友勢は吉弘統幸を大将に、岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生と雑兵100人であり、二の丸の野原太郎右衛門の内通により城下に火が掛けられ夜明けから戦闘が開始された。木付城側も康之が相原山に伏兵を置い迎え撃ち、柴田統生を討ち死にさせるなど大友勢の敗北に終わった。なお、この合戦で朱湯院長泉寺・円通山観音禅寺・太平山宝泉寺が焼失したという。 9月9日に大友勢の立石布陣の報を受けた如水は木付城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約千人。二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約千人)を派遣し自らも追って出陣した。先遣隊は10日に赤根峠を越え、12日に木付に到着、如水の本隊を待てとの指示に従わずに13日の朝より鉄輪で合流した黒田先遣隊と杵築勢は石垣原へ兵を進めた。 如水の本隊は先遣隊と同日の9日に中津城を出陣し、宇佐高森城(黒田孝利)・高田城(竹中重利)を経て10日に赤根峠を越えて国東に進出し富来城(垣見一直)を包囲した。当時旗幟を鮮明にしていなかった重利は、子の竹中重義に兵200人を付けて黒田軍に従軍させた。 大友軍が杵築城を攻撃すると、黒田軍は攻撃予定であった富来城(垣見一直)を後回しにして、合戦のあった13日には頭成まで家臣の井上九郎兵衛・時枝平太夫を進出させた。黒田軍本隊は12日には安岐城(熊谷直盛)を攻め、13日に打って出てきた熊谷直盛の軍を撃破し、杵築城の救援に向かった。
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