大友義統の豊後上陸
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大友義統は文禄の役の失態により改易され、輝元の預かりとなったが後に佐竹義重へ移行された。また子の義乗も加藤清正預かりから徳川家康預かりとなり江戸住まいの後に東軍として会津攻めに従軍した。家臣団も多くは中津の黒田家預かりとなった他、田原親賢・宗像鎮続(むなかた しげつぐ)は豊臣家直臣に取り立てられ中川秀成の与力となる。吉弘統幸は如水に身を寄せた後に従兄弟にあたる立花宗茂の下で2,000石の知行を得ていた。秀吉が死ぬと義統等は赦免され、自由の身となった。 1600年(慶長5年)4月、義統は増田長盛の配慮により大坂天満に居を構えた。7月に石田三成が挙兵すると、8月に義統は豊臣秀頼より鉄砲300丁を含む武器・馬匹・銀を贈られ、大阪を離れて故地豊後に向かった。義統の下向を知った如水は使者を派遣して周防上関で徳川につくよう要請をした。同時期に立花家に仕えていた旧臣の吉弘統幸も江戸の義延へ合流する途上で義統に謁見して徳川につくように進言したが容れられず、輝元の支援を受けて豊後へ向かう義統と行動を共にした。 9月8日の夜に瀬戸内海を渡った義統は富来城と安岐城の間に着岸、夜が明けないうちに木付沖を南下して浜脇に上陸した。9日の朝、義統は立石に布陣を行い、大友氏ゆかりの旧家臣の集結を求めた。これに呼応して中川秀成に仕えていた旧大友家家臣の田原親賢・宗像鎮続などが加勢した。この立石の東は海であり、西に鶴見岳があり、南には朝見川がある。つまり天然の要塞であり、その立石から北側に境川を渡ると、石垣原と呼ばれる雑木林や田畑が広がっていた。
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