東部戦線・イタリア戦線
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「第653重戦車駆逐大隊」の記事における「東部戦線・イタリア戦線」の解説
「エレファント重駆逐戦車#フェルディナントの実戦投入」も参照 ツィタデレ作戦直前の1943年7月4日には計89輌のフェルディナントが連隊に配備されていたが、8月1日時点で39両が失われ、残存車は50両 (稼動数26両)に損耗していた(一方、敵戦車撃破数は502両に達していた)。8月26日になると第656重戦車駆逐連隊はドニプロペトロフシクまで後退し、この際損耗の激しかった第654重戦車駆逐大隊は残存車両を第653重戦車駆逐大隊に引渡しヤークトパンターへの装備改編の為一旦後方へ撤退した。 第653重戦車駆逐大隊はこの後もフェルディナントの修理をしながら戦闘を継続し、11月時点で敵戦車撃破数は582両となったが、稼動状態のフェルディナントが10両を切る状態となっており、11月29日をもって休養および車両のオーバーホールのため西方のザンクト・ペルテンに撤退することとなった。 第653重戦車駆逐大隊のフェルディナントの残存車両は1944年2月にかけてオーバーホールおよび改修が行われた。この改修とほぼ同じタイミングでヒトラーの命令により"エレファント"に名称変更され、大隊に復帰した。 1944年1月22日に連合軍がイタリアのアンツィオおよびネットゥーノへの上陸作戦を敢行し、(アンツィオの戦い参照)これに対応するため、改修を終えたエレファント11両を装備した第653重戦車駆逐大隊 第1中隊が急遽派遣される事となった。第1中隊は2月後半からネットゥーノで連合軍との戦闘を開始した。 第653重戦車駆逐大隊の大隊本部および第2中隊、第3中隊はエレファント31両を装備し1944年4月に東部戦線に復帰し、北ウクライナ軍集団の第9SS装甲師団 "ホーエンシュタウフェン"の指揮下に入った。 1944年6月になると、イタリア戦線ではローマが連合軍によって解放され、第1中隊のエレファントは2両となっていた。6月26日になると、第1中隊の要員の一部は第2中隊、第3中隊に合流し、また一部はザンクト・ペルテンの宿営地に移動した。 1944年7月にはソ連軍の大規模反攻作戦(バグラチオン作戦)により第653重戦車駆逐大隊の損耗も激しくなり、7月末にはエレファントの残存数は14両にまで低減しており、いずれも修理の必要な状態であった。 8月に一旦後退して車両の修理が行われ、9月には14両のエレファントをもって第653重戦車駆逐大隊はA軍集団隷下の第17軍の指揮下に入った。この際、エレファントの保有数が少ないことから第2中隊、第3中隊は1個中隊(第2中隊)に統一された。 1944年10月になると、第653重戦車駆逐大隊に対してヤークトティーガーへの装備改編命令が出された。これに対し、エレファントを保有している第2中隊は12月には第614重戦車駆逐中隊と改称され、第653重戦車駆逐大隊と別れ、引き続き東部戦線でドイツ軍の後退を支援する事となった。第614重戦車駆逐中隊はこの後、1945年4月には最後の4両のエレファントをもってベルリン防衛戦に参戦した。
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