東部戦線の防寒着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:00 UTC 版)
「制服 (ナチス親衛隊)」の記事における「東部戦線の防寒着」の解説
ドイツ軍はウール製オーバーコート以外に特別な防寒着の備えがないまま独ソ戦を迎えたため、1941年から1942年にかけての冬季の東部戦線では凍傷・身体機能低下による戦線離脱者が相当数に及んだ。この対策で国防軍は1942年後期からウールまたはコットンレーヨン地の面と白いコットン地の面を反転着用できるリバーシブルで中に保温材が入っている防寒服とズボンを支給するようになった(軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#東部戦線の防寒野戦服参照)。武装SSでも一部の部隊がこの防寒着を流用したが、同時期に武装SSは裏地が毛皮の42年型防寒服とズボンを武装SS独自の防寒着として定め、武装SSではこれが一般的となっていく。 この42年型防寒着は防水性のあるセメントグレーのギャバジン製で、裏地が毛皮の重いパーカータイプのコートだった。防寒性を考慮してプルオーバーになっており、対のズボンも一緒に支給された。また地面に雪が積もると染色されていない白のコットン製のフード付きスモックとズボンが支給され、防寒着の上から着用した。 この42年型防寒着は陸軍防寒着より保温性には優れていたが、重い上、毛皮部分が破損しやすいなど欠点も多く、どちらかというと陸軍防寒着の方が機能的だったという。SS経済管理本部長官オズヴァルト・ポールも陸軍防寒着に変更するべきと主張していた。 1943年10月1日、武装SSは陸軍型のSS迷彩防寒服を採用した。フード、ジャケット、ズボン、ミトンから成り、どれも防風素材を二重に重ねており、ウールレーヨンが間に挟んである。秋期迷彩柄の面と白い面のリバーシブルであり、通常野戦服の上から着用した。白側は汚れやすかったので戦闘以外では迷彩柄で着用するよう命じられていた。陸軍型との違いとしては迷彩の他、ポケットのふたの形状が陸軍は直線状なのに対し、SSの物はアーチ状である点、袖部に敵味方識別布用のボタンがない点があげられる。他にも細部にいくつか違いがある。 42年型防寒着に完全に取って代わることはなく、両者は併用して生産・使用された。1943年後期から1944年初期にかけては42年型防寒着の前合わせを改良した物が登場した。着脱しやすいようプルオーバーからボタンで全開できるスタイルになっており、また胸ポケットのプリーツはなくなっている。 1942年型の裏地が毛皮の防寒着(1943年ハリコフ攻防戦のヘルマン・ダールケSS少尉) 1943年型の陸軍型SS迷彩防寒服 武装SSの戦車兵の黒服(左)と陸軍型SS迷彩防寒服(右)
※この「東部戦線の防寒着」の解説は、「制服 (ナチス親衛隊)」の解説の一部です。
「東部戦線の防寒着」を含む「制服 (ナチス親衛隊)」の記事については、「制服 (ナチス親衛隊)」の概要を参照ください。
- 東部戦線の防寒着のページへのリンク