ベルリン防衛戦
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「ヘルムート・ヴァイトリング」の記事における「ベルリン防衛戦」の解説
1945年4月22日、当時ヴァイトリングはベルリン東部の防衛を担当していたが、指揮所が刻々と後退することをもって陣地死守の命令に反するとして抗命罪の汚名を着せられ、銃殺刑を宣告された。しかし総統地下壕へ出頭してアドルフ・ヒトラーに直接現状を説くと、一転して銃殺刑は撤回され、翌23日にはベルリン防衛軍司令官に任命された。これによって5個師団及び武装親衛隊の兵力4万5,000人が指揮下に入った。さらに補充部隊として4万人が指揮下に入ったが、これは十代そこそこの少年から第一次大戦を経験したというだけで狩り出された老人で編成された国民突撃隊といったその場しのぎの戦力であり、数で圧倒的に勝るソ連軍に対し戦局は絶望的だった。ヴァイトリングは官庁街防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケの部隊2,000人と共にソ連軍に対処することになった。 ヴァイトリングは市街を「A」〜「H」の8区画に分けて、第9降下猟兵師団をフリードリヒ通り駅付近、第11SS義勇装甲擲弾兵師団をアンハルト駅(ドイツ語版)付近、第18装甲擲弾兵師団をグルーネヴァルト(ドイツ語版)付近、ミュンヘベルク装甲師団をヴィルマースドルフ(ドイツ語版)付近に、第20装甲擲弾兵師団をヴァンゼー(ドイツ語版)・ポツダム方面というようにベルリン市街の各所に配備したが、これらの部隊のほとんどは実戦経験が皆無だった。 4月26日にベンドラー街(英語版)の陸軍総司令部に作戦本部を設置し、参謀たちは昼夜を問わず作戦に追われることになった。同日、テンペルホーフ空港のソ連軍を攻撃し戦果を上げるが、反撃を受けそれ以上の進撃は不可能となった。27日夜、総統地下壕に向かったヴァイトリングはヒトラーに戦況を報告すると同時にベルリン脱出計画を進言するが、ヒトラーに脱出を拒否されている。翌27日、ソ連軍はベルリンを完全包囲し各所を占拠していた。この際、ヒトラーユーゲント指導者アルトゥール・アクスマンに対してヒトラーユーゲントの戦線投入を中止するように命令しているが、戦況の混乱のため命令が実施されず、多くのヒトラーユーゲントが戦死した。29日にヴァイトリングは指揮官たちと会談し、ポツダム近郊のシュヴィーロウ湖畔にあるフェルヒ(ドイツ語版)まで進出していた第12軍と接触が可能か議論し、22時に脱出を開始するように指示した。
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