ベルリン関税障壁と門の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 07:06 UTC 版)
「ブランデンブルク門」の記事における「ベルリン関税障壁と門の建設」の解説
ベルリンはかつて星型要塞に囲まれた城郭都市だったが、市街地の要塞外への拡大と要塞の軍事的価値の減少に伴い、1734年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は要塞の廃止を命じた。その代わりに市街地全体を大きく取り囲むようにベルリン税関壁(英語版)が設けられた。 ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差するところには、14か所(のちに18か所に増える)の関税門が設けられ、ベルリンを出入りする物資に関税を課していた。ブランデンブルク門も関税門のひとつであった。関税門の名前は、「ハンブルク門」「シレジア門」「ポツダム門」「アンハルト門」など、街道の先にある都市や地方の名前から取られており、ブランデンブルク門の場合はホーエンツォレルン家(ブランデンブルク辺境伯から、プロイセンの地を得てプロイセン王国の王、ドイツ帝国の皇帝となった)がベルリンに遷都するまで、ブランデンブルク辺境伯国の首都だったブランデンブルクに通ずる道を扼する役割を担っていたことから名づけられた。1868年からの税関壁の取り壊しとともに門も多くが姿を消していく中、ブランデンブルク門は残された。現在、城壁や都城の門は跡形もなくなったが、ベルリンには『~Tor(門)』という地名はそこかしこに残されており、門の外側に作られたかつての鉄道ターミナル駅の名前にも反映している。
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