ベルリン駐留司令官
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「アルバート・ワトソン2世」の記事における「ベルリン駐留司令官」の解説
ワトソンは1961年5月5日から1963年1月2日まで少将としてベルリン司令官を務めた。任務中多くの役割をこなし、外交官ウォルター・ダウリングの外交的役割、ローリス・ノースタッドの軍事的役割、そしてアメリカ国務省と直接情報を取り合うなど、非常に多忙であった。また彼は任務中に最初の殊勲章を受章した。 彼の任務中にベルリンの壁が建設され始めた。ワトソンはそれを挑発的な行為とみなし、西ベルリンの飛び地であるシュタインシュテュケン(英語版)に軍事駐留施設を設置し、またベルリンの壁付近の上空をヘリコプターで常時飛行させ監視した。戦車での対戦は早い段階でベルリンの壁で行われていたかもしれない。 ワトソンが東ベルリンソビエト司令官アンドレイ・ソルビエフとの面会をキャンセルするという外交的事件が起こった。ワトソンの補佐官2人と通訳を乗せた陸軍の公式専用車両が東ドイツに入国しようとしたところ、アメリカが把握していない東ドイツ国境警備隊が入国証明書を提示しなかったという理由で入国拒否された。アメリカ側の見解では、ソ連側の政府役人のみがアメリカ軍に証明書の提示を行うことを要求できる、と主張していた。ワトソンはこの行為に不快感を示し、ソルビエフとの会談を取り消し、抗議を行った。皮肉なことに、この会談は一週間よりも早い期間で、アメリカの政府高官の入国禁止についての議論を講じるために召来されたものであった。ワトソンも報復措置としてソルビエフと政府顧問の西側への出入国を禁止した。 また2度目の外交問題も発生している。西ドイツの若者が、東ドイツのバスに投石し妨害したことを巡って、ソ連の高官がワトソンとの面談を辞退した。さらにワトソンは西ドイツへ亡命を試みて、東ドイツの警備隊に射殺されたペーター・フェヒターの事件処理と、それに関する民衆の暴動を鎮圧した。
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