ベルルスコーニとの連携と決別
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「ジャンフランコ・フィーニ」の記事における「ベルルスコーニとの連携と決別」の解説
敗北したベルルスコーニは「ルニオーネ」内の有力政党が合流、イタリア民主党を結成した事に対抗して、「自由の家」内でも政党の統合を行うべくフォルツァ・イタリアを解散した。当初、フィーニは自由の家を構成する北部同盟やイタリア・キリスト民主主義中道連合と同じく合同計画に冷やかな態度を示し、「国民同盟が合流する事はないだろう」と発言した。 一方、フィーニの党内穏健化に向けた改革とそれへの反抗は続いており、自由主義を新たな指針とする為に様々な努力が続けられていた。党章からMSIのマークを取り除こうとした際には党内から多大な批判が寄せられた。また閣僚時代にも同性愛問題や人工授精問題に関する穏健な姿勢は、キリスト的倫理観を重んじる党内右派からの厳しい批判に晒された。このような党内対立の中、常にフィーニの穏健化路線に好意的だったのがベルルスコーニであり、共に中道右派を志向する両者には新党結成の可能性が最も高く存在していた。 2008年4月、一転して新党結成に合意すると宣言を出したフィーニは、まずは選挙対策としてベルルスコーニ派議員と政党連合「自由の人民」を結成、同年の総選挙で勝利を得て政権を奪還した。与党連合はフィーニを下院議長に選出した為、政治的中立の規則に従って国民同盟を一時的に離脱した。翌年、政党連合を発展的に解消させる形で政党「自由の人民」が成立した。 シルヴィオ・ベルルスコーニからはローマ市長選時代から政治的盟友として信頼されており、「自由の人民」発足の際には自らの後継者となるだろうと発言した。だがベルルスコーニの度重なるスキャンダルから関係は悪化し、2010年4月の党大会で激しく罵り合う事態に発展。7月30日には約30人とともに離党し、議員グループ「イタリアの未来と自由」(FLI)を結成し、後に新党へ移行する。ベルルスコーニへ首相辞任を要求するなど批判を強め、ベルルスコーニの首相辞任後は中道グループの一員として首相となったマリオ・モンティを支えた。モンティが新たに結党した「市民の選択」(SC)、及びイタリア民主社会党を中心としたイタリア中道連合(UDC)と政治同盟を結んでモンティ政権の与党となり、改革に賛同した。
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