東部戦線イタリア戦線とは? わかりやすく解説

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東部戦線・イタリア戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/19 03:24 UTC 版)

第653重戦車駆逐大隊」の記事における「東部戦線・イタリア戦線」の解説

エレファント重駆逐戦車#フェルディナント実戦投入」も参照 ツィタデレ作戦直前1943年7月4日には計89輌のフェルディナント連隊配備されていたが、8月1日時点39両が失われ残存車50両 (稼動26両)に損耗していた(一方、敵戦車撃破数は502両に達していた)。8月26日になると第656重戦車駆逐連隊ドニプロペトロフシクまで後退しこの際損耗激しかった第654重戦車駆逐大隊残存車両第653重戦車駆逐大隊引渡しヤークトパンターへの装備改編の為一旦後方撤退した第653重戦車駆逐大隊この後フェルディナント修理しながら戦闘継続し11月時点で敵戦車撃破数は582となったが、稼動状態のフェルディナント10両を切る状態となっており、11月29日をもって休養および車両オーバーホールのため西方ザンクト・ペルテン撤退することとなった第653重戦車駆逐大隊フェルディナント残存車両1944年2月にかけてオーバーホールおよび改修が行われた。この改修とほぼ同じタイミングヒトラー命令により"エレファント"に名称変更され大隊復帰した1944年1月22日連合軍イタリアアンツィオおよびネットゥーノの上作戦敢行し、(アンツィオの戦い参照)これに対応するため、改修終えたエレファント11両を装備した第653重戦車駆逐大隊 第1中隊急遽派遣される事となった。第1中隊2月後半からネットゥーノ連合軍との戦闘開始した第653重戦車駆逐大隊大隊本部および第2中隊第3中隊エレファント31両を装備し1944年4月東部戦線復帰し北ウクライナ軍集団第9SS装甲師団 "ホーエンシュタウフェン"の指揮下に入った1944年6月になると、イタリア戦線ではローマ連合軍によって解放され、第1中隊エレファントは2両となっていた。6月26日になると、第1中隊要員一部は第2中隊第3中隊合流し、また一部ザンクト・ペルテン宿営地移動した1944年7月にはソ連軍大規模反攻作戦バグラチオン作戦)により第653重戦車駆逐大隊損耗激しくなり、7月末にはエレファント残存数は14両にまで低減しており、いずれも修理必要な状態であった8月に一旦後退して車両修理が行われ、9月には14両のエレファントをもって第653重戦車駆逐大隊A軍集団隷下第17軍指揮下に入ったこの際エレファント保有数が少ないことから第2中隊第3中隊は1個中隊(第2中隊)に統一された。 1944年10月になると、第653重戦車駆逐大隊に対してヤークトティーガーへの装備改編命令出された。これに対しエレファント保有している第2中隊12月には第614重戦車駆逐中隊改称され第653重戦車駆逐大隊別れ引き続き東部戦線ドイツ軍後退支援する事となった。第614重戦車駆逐中隊この後1945年4月には最後の4両のエレファントをもってベルリン防衛戦参戦した

※この「東部戦線・イタリア戦線」の解説は、「第653重戦車駆逐大隊」の解説の一部です。
「東部戦線・イタリア戦線」を含む「第653重戦車駆逐大隊」の記事については、「第653重戦車駆逐大隊」の概要を参照ください。

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