東明聖王
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東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語: 동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王とも呼ばれる。『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高(こう、コ、朝鮮語: 고)、諱は朱蒙(しゅもう、ジュモン、朝鮮語: 주몽)または鄒牟(すうむ、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい、チュンヘ、朝鮮語: 중해)とされる[1]。『三国史記』新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀』天智天皇紀では仲牟王と書かれている。『三国史記』高句麗本紀・広開土王紀・百済本紀・義慈王紀によると、中国黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた[2][3][4][5][6]。夫余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国した。河伯の娘である柳花夫人の息子である[7][8][9]。
- ^ 高句麗語に声調があったかわからないが、中国語とベトナム語において「蒙」字は平声東韻で、「解」字は上声蟹韻で読まれている。
- ^ 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会): p. 30. オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ “三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “의자왕 義慈王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ “광개토왕 廣開土王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “유화부인 柳花夫人,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “하백 河伯”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “하백(河伯)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c 宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』扶桑社、2013年8月8日、6-7頁。ISBN 459406874X。
- ^ a b c d 豊田有恒 (2001年3月30日). “魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷”. 北東アジア研究 1 (島根県立大学): p. -100-101
- ^ 稲葉岩吉、矢野仁一『朝鮮史・満洲史』平凡社、1941年。
- ^ a b c d 伊藤英人 (2021年7月). “濊倭同系論”. KOTONOHA (古代文字資料館): p. 12
- ^ 高句麗など鳥を崇拝していた民族では、卵が神聖なものとされた。
- ^ そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。
- 1 東明聖王とは
- 2 東明聖王の概要
- 3 夫余の建国伝説との比較
- 4 陵墓
固有名詞の分類
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