札幌における競馬の始まり
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「札幌育種場競馬場」の記事における「札幌における競馬の始まり」の解説
札幌における競馬で記録に残るものの最初は1872年(明治5年)9月14日札幌神社の祭礼の際に行われたものである。 北海道には江戸時代から虻田に乗用馬の牧場があったが、明治新政府が1871年(明治3年)にこれを廃止し、牧場の馬を札幌の庶民に払い下げた。開拓民の多くはこの時はじめて馬を所有するようになった。翌1872年、北海道で初めての一宮として札幌神社が誕生すると、当時の開拓長官黒田清隆は、札幌神社の祭礼にあたっては、官民とも仕事を休んで参拝・遥拝するように全道に命じた。これに応じ、開拓民は払い下げられたばかりの馬に乗って札幌神社に向かったが、その往還路にあたる琴似街道(銭函街道ともいう、のちの北海道道453号西野白石線)で「自然発生的に」行われたのが札幌での競馬の濫觴とされている。 このときの競馬は、琴似街道の直線部分300間約545メートル(現在の札幌市立円山小学校前、西25丁目通りの南1条から北5条まで )で行われ、祭礼に来るのに農耕馬や荷役馬に乗ってきた近郊の農民など数十騎が早さを競ったものである。 当時の札幌周辺の農民は東北諸藩の元武士(戊辰戦争の負け組)だった者が多く、元武士ゆえに騎乗を心得ているものが多く、また農作業や荷役に馬は欠かせないものだったため馬を所有している農民が多かったものと考えられている。ただし、この明治5年の競馬は一般道路で行い、規則も定めず、取り仕切る役員もなく、賞品賞金もなく、馬によっては鞍すらも付けてないという競走だった。つまり近代競馬とは比べようもない草競馬・遊びのようなものだった。 1873年(明治6年)7月9日と1874年(明治7年)8月15日の札幌神社の祭礼の際にも同じ琴似街道で有志が競馬を行ったが、明治6-7年の競馬では時の開拓判官松本十郎が参加している。 自身が乗馬好きで乗馬術に長けた松本は馬に乗って琴似街道の競馬を指揮し、スタートの合図も行い、自ら騎乗して範も示した。このため明治6-7年の琴似街道の競馬は整然と行われた。明治6-7年の琴似街道の競馬は参加が30頭、少なくとも20頭は参加し、1日にレースは繰り返し行われ、同じ馬が1日に5ないし8回も参加することもあったという。直線の一般道路上で行い、規則も特に定めず、賞品賞金もなく、馬によっては鞍すらもない競馬であるが、この農民や農耕馬を主体に行われた琴似街道競馬が札幌の競馬の始まりであり、松本十郎は札幌競馬の功労者であるとされている。 この明治5-7年に有志で行われていた琴似街道(銭函街道)の競馬は、北海道の馬の貧弱な体格に悩み馬匹改良を求めていた開拓使の目的と一致し、明治8年からは場所を変え開拓使の官吏によって執り行われるようになった。明治8年の競馬は札幌中心に近い空知通り(北6条通り)で距離300間約545メートルで行われた。(つまり官営となった明治8年も道路を利用した直線レースである) 1876年(明治9年)になると、北海道庁前の北2条西4丁目から北3条西4丁目(現代では札幌駅から札幌駅前通りを400メートル程度行った一等地である)のホップ園を台形に囲んだ馬場を作り、仮設のスタンドも作って競馬を行った。これも1周300間約545メートル程度の馬場である。出場する馬は官馬20頭。この時までにすでに街道競馬を数年行っていたので競馬は札幌住民にとって身近なものになり、また馬を飼うことが広まりこの当時の札幌住民の多くは馬を飼っていたという(広大で開発が進んでいないこの当時の北海道では馬は必需品になっていた。札幌南1条通りの商家で馬繋杭のない商家は無いほどだったともいう) 札幌住民の競馬人気に加え、馬匹改良の必要をますます感じた開拓使では、勧業課・工業課・屯田事務所が協力して新馬場を建設することになった。1877年(明治10年)、お雇い外国人である獣医師エドウィン・ダンらの意見を取り入れ、開拓使育種場(1878年札幌育種場に改称。)に本格的な競馬が可能な競馬場の建設を始めた。(それまでの街道やホップ園の競馬は距離も短く整地もされておらず全力疾走する競馬は不可能だった)
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