札差株の変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
札差の株(営業権)は、文字通り千両株であったといわれる。もともと109人を限る御免株とされ、欠落人が出たりして空き株ができると、はじめは町奉行所が株を召上げて管理したが、のち株仲間で持つこととなって、新規開店希望者に分与することが可能となった。また転廃業する者が、新規希望者に株を売渡すことも行われるようになり、札差業が大いに繁栄するとともに、株価も高騰した。 しかし株仲間としては、札差業が次第に氏素性のまったく知れない者たちに拡散していくのを恐れており、株を譲渡する先を、仲間内の兄弟や子供、長年札差の家に奉公してきた者など信頼できる身内に限り、しかも住所を蔵前にするよう申合わせていた。また、札差の株を得たものは、109人であったが、常にその全員が営業していたのではない。これは当初のみならず、幕末までそうだったが、伊勢屋・板倉屋・和泉屋など、同じ屋号の多かったのは、最初に1人でいくつかの株を持っていて、後には弟とか次男とか或は長年勤務した使用人に分け与えたからである。 明和 - 天明(1764 - 88年)期、いわゆる田沼時代最盛期が札差業大繁栄の頃と目され、十八大通などの話題が騒がれた時期である。札差株は千両株をうたわれている頃であるが、株の売買譲渡の回数は多い。最も景気のよいと思われていた大通人の大口屋治兵衛が、伊勢屋太兵衛に株を譲り廃業するのも明和4年(1767年)11月である。 安永7年(1778年)「奥印金」(後述)を禁止した時、109人から79人に減じたこともあったが、その後再び増え始め、寛政期の棄捐令発布時(1789年9月)には札差は96組であった。その後の札差株の変動は、寛政 - 享和(1789 - 1803年)の14年間はほぼ1年に1株で札差業者の数は少なくとも表面上96人から減っていない。札差株の価格も4 - 500両に下落したと言われるが、株の譲渡率も上昇したわけではなく、廃業者続出ということも事実ではない。 このあと文化・文政(1804 - 1829年)の江戸文化最盛期は、さらに札差株は移動が少なく、棄捐令が発布されて以後、全体的に札差株の移動頻度は、それ以前よりむしろ漸減していた。 札差株仲間も天保年間に発令された株仲間の解散令の例外ではなく、この時より希望者は誰でも札差業を開くことができるようになったが、実際には新規開業者は現れず、嘉永4年(1851年)株仲間が再興されても、江戸札差の顔ぶれはほとんど変わりなかった。 このように、世の移り変りと幕府の施政により、繁栄を誇っていた蔵前の札差も次第に衰微し、札差株も幕末には250 - 300両にまで下落した。
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