札差の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
旗本・御家人に多年にわたり金融を続け、多額の利潤を得た札差は、次第に武士に対し無礼な態度をとるようになっていった。借金を申し込んできた旗本らを2階の狭い部屋に通し、長い間待たせておいて応対は手代たちに任せる。直接会いたいと言っても、病気や外出中等と理由をつけて面会せず、自分は日夜、遊興にふけっていた(この手代というのは後述する対談方のことである)。また、天明から寛政のころ(1781 - 1801年)になると、娘を「お譲様」女房を「御新造様」と本来なら武家が使う呼び方で呼ばせるようになった。 札差株仲間結成後、月番で行事の役が回ってきた時、浅草御蔵の中の口という詰所に出仕して御蔵の米切手の出入の取扱いを行った。この月番行事には札差自身が出向いていたが、それ以外の業務は全て手代に任せ、儲けた金銀を遣い捨てることを常とするとまで言われた。この月番行事でさえ、当初は手代に任せていたのだが、寛政の改革時にそのことを咎められ自ら出仕することと決められた。詰所においても、用向は手代に取扱わせて、自身は弁当代に1ヶ月100両使い、他の月番の者達と江戸中の有名店の珍味を取寄せ、遊里で遊ぶことを語りあい、退屈紛れに賭け碁や賭け将棋をし、小判を並べて博奕をすることまであったという。 当時、芝居小屋や吉原に出入りしては粋(いき)を競い、豪遊を行った町人を通人(つうじん)と呼んだが、中でも「十八大通」と呼ばれた人々がおり、その多くは札差連中であった。歌舞伎の演目「助六」のモデルとも言われている大口屋暁雨などが有名である。
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