本文整定作業と巣守の巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/05 21:11 UTC 版)
少なくとも現時点では、巣守の巻が源氏物語の中から除かれた経緯を直接証言する資料は発見されてはいない。但し稲賀敬二は、河海抄にある「かつてはいくつかの源氏の物語が存在したが、最も優れている光源氏の物語以外は絶えてしまった。」とする記述について、源三位の子供である巣守三位たちの物語である巣守物語も一つの「源氏の物語」と呼ぶことが出来るので、この河海抄の記述は巣守物語が消えていったことを指している可能性があるとしている。 但し「巣守」巻について、巻名目録などの中で「巣守」という巻名のみについて触れている文献を別にすれば、「巣守」の内容にまで踏み込んで言及している資料は鎌倉時代初期までに成立したと見られる文献に限られている。そのため平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源氏物語が古典・聖典化する中で、源氏釈や奥入のような源氏物語の対する注釈の発生などと平行して行われていった藤原定家や河内方によって行われた標準本文整定作業と関連する可能性が高いと見られている。 こうした源氏物語の本文を整える作業の詳細は、河内本の元になった写本の名前が一部分伝わるなどしているものの、それぞれの写本が具体的にどのような本文をもっていたのかはほとんど不明であり、またそれらいくつかの写本の本文を元にしてどのような方針で正しいとされる本文が定められたのかも明らかではない。鎌倉時代に成立した文献「光源氏物語本事」は、後に主流となる本文である「京極中納言の本=青表紙本」について、「枝葉を抜きたる」と、どうしても取り除くことの出来ない根幹となる部分以外を取り去った本文であるという評価を下している。 今井源衛は、この「取り去り」が短い文言の抜き去りといったものだけではなく、「巣守」を源氏物語から取り除くといった巻単位での源氏物語からの除去をもを指している可能性もあるとしている。この標準本文整定作業に当たって「現在の54帖は全て紫式部作である。またこの54帖だけが紫式部作である。」とする理解が前提であったのかどうかも明らかではなく、結果的に54帖の体系の中に残った宇治十帖などにも古くから紫式部以外の人物による執筆とする伝承が異論を伴って伝えられることもあるものの古くから存在しており、「これらはある本もあり、なき本もあり」等としてその存在が揺れていたとされていた。 そのような見方が存在する宇治十帖が残されたことから考えてもら紫式部が執筆したのではないと考えられた部分を排除すべきであるという意識が、標準本文整定作業にあたって存在したかどうかも不明である。
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