本文批評問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:13 UTC 版)
『マルコ福音書』には、いくつかの重要な本文批評上の問題がある。 冒頭(1:1)の「神の子」という句は、最も議論の多い箇所のひとつである。ℵ元記とオリゲネス等の古代教父の引用にこの句がないことから、ネストレ・アーラント25版まではこの句を採用していない。しかし、26版以降、[ ]付き(校訂者が最終判断を留保する意)で本文に加えられた。邦訳聖書のほとんどは従来からこの句を採用している。一部に、「異本にこの句を欠く」等の注がある。 「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『私は望む。清くなれ』と言われると、」(1:41、聖書協会共同訳による)の「(深く)憐れんで」を「怒って」とする写本群が存在する(西方系写本、具体的には、D(5世紀)、古ラテン語訳a写本(4世紀)、同ff2(5世紀)、同r1元記(7世紀))。ネストレ・アーラントは「憐れんで」を採用している。こちらを支持するのはℵ、B、L(8世紀)、892(9世紀)、ℓ2211(995年/996年)。そのため多くの日本語訳聖書はそれに従っているが、塚本虎二訳、田川建三訳などは「怒って」を採用している。 15:34の十字架刑で絶命するイエスの叫び「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(聖書協会共同訳)は、これがヘブライ語かアラム語かという問題が絡み、写本の異読が多い。翻訳聖書で問題になるのは、3語目をヘブライ語の“lama”とするか(B、Θ、059など)、アラム語の“lema”とするか(ℵ、C、L、D、Ψなど)である。ネストレ・アーラントは25版までは前者を採用していたので口語訳などは「ラマ」とし、26版以降は後者を採るように変わったので新共同訳、聖書協会共同訳などは「レマ」としている。 古くから多くの議論がなされてきたのは福音書の結末部分(16:9以降)である。マルコ福音書には下記のように写本によって結末が数種類存在する。 (1)16:8 を結末として終わっている写本群。 ℵ、B、小文字写本304、シリア語シナイ写本など。及びエウセビオスの証言 (2)「長い結尾 Longer Conclusion」(16:9-20)と呼ばれる結末だけを持つ写本群。 A、C、D、W、Θ、f1、f13、33、2427など (3)「短い結尾 Shorter Conclusion」と呼ばれる全く別の結末部分だけを持つ写本。 古ラテン語訳k写本 (4)「短い結尾」の後に「長い結尾」を付加している写本群。 残る大部分の写本 現在の本文批評においては、16:8 で終わっている写本群が数種の有力で良質な古写本を含んでいること、さらに「長い末尾」も「短い末尾」も独自の内容を持たず他の福音書の結末部分から後の時代に作成および付加されたと推測されることなどから、写本が流布する以前は16:8 までが『マルコ福音書』の元来の本文だったとするのが最も有力な説である。しかし、16:8 で福音書が終わるとすると書物の結尾の文体としては唐突な印象になるのが否定できないため、著者の殉教などにより福音書が未完に終わったとする説や、写本流布の前に著者の原稿が損傷し結末部分が失われたとする説、さらに結末部分としては一見不釣合いな唐突な終わり方こそ『マルコ福音書』の著者の本来の意図であると主張する学者などもおり、各種の議論が行われている。
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