服部の「功」としての逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 22:00 UTC 版)
「服部敬雄」の記事における「服部の「功」としての逸話」の解説
前述、服部の「罪」としての逸話の項目にも綴られている通り、様々な「罪」に焦点の当たることの多い服部ではあったが、以下の点においては服部の「功」の面で県民生活の便益向上に繋がったとされている。 庄内平野は海運によって昔から全国とのネットワークが確立されていた。しかし、県の政治経済の中心部である山形市を有する山形盆地は、周囲が山に囲まれているため、周辺の県をはじめ全国との交通ネットワークの発達が遅れていた(山形盆地から越県するには峠を越えるか最上川の水運しかない)。将来的にこれは県政発展の阻害要因になりかねないと危惧されはじめた。そこで、航空運輸でこの問題を解決しようと、旧帝国海軍舞鶴鎮守府神山練習飛行場として発足し、戦後は米軍や自衛隊などが利用していた飛行場を民間空港として開設することを考えた。そこで、当時の安孫子藤吉知事と服部の主導により、官民合同による「山形空港設置促進期成同盟会」を結成し、開港運動を進めた。そして1964年(昭和39年)、「神町空港」として開港した(「山形空港」への名称変更は翌年)。しかし、開設はしたものの採算ベースになかなか乗らないとして、民間機就航は難航した。服部は旧知の間柄であった全日本空輸の美土路昌一社長とそれを引き継いだ岡崎嘉平太社長に対して、直接懇請をした。結果として、開港から1ヶ月後、山形 - 東京間の全日空路線が就航したとされている。 戦後の高度経済成長の時代を経て、県民生活においても量的、質的拡大は図られたものの、その一方、山形県下における医療問題や、医師不足は深刻な状況となった。そこで、1968年(昭和43年)、当時の一県一医大構想を背景として、県に山形大学医学部設立準備委員会が設置された。1969年(昭和44年)には、県・県議会、市町村・同議会など行政体を中心とする「山形大学医学部設置促進期成同盟会」を結成し、文部省、厚生省に対し活発な陳情運動を行った。この際、服部が旧知の仲であった田中角栄自民党幹事長に直接懇請をしたとされている。なお、服部を含め多方面から設置に尽力を重ね、山形大学医学部は1971年(昭和46年)6月、評議会において設置推進が決定。翌年の山形大学医学部創設準備室設置を経て、1973年(昭和48年)に国立学校設置法の一部を改正する法律の公布、施行により、山形大学医学部が設置された。近似の事例は同年設立の浜松医科大でもある。
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