最盛期の競技
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:34 UTC 版)
大正時代から太平洋戦争の沖縄戦直前まで沖縄本島の各地で行われ、平良真地での競馬は、毎年10月20日に沖縄神社の祭礼競馬として行われた。首里を中心に沖縄を二分し、島尻方と中頭方で勝負する大競馬であり、開最盛期には200頭、昭和初期にも100頭ほどの馬が集まった。見物者は、中頭からも島尻からも沖縄本島のみならず、周辺の島々からやってきた。大会は大変な盛況で熱気があふれ、競技に掛け声をかけていた。 「アブシバレー」と呼ばれる旧暦4月15日に行われる畔払い、虫払い(悪い虫を追い払う儀式)を中心に、旧暦3月3日の「浜下り」、8月15日の「十五夜」などの催事に合わせて行われた。沖縄市の知花で開催された競技では、乗り手も村祭りの晴れ着「知花花織」を衣裳に着用した。 馬の後肢や肩先を赤や黄色の生地、花で飾り付け、朱塗りの唐鞍や和鞍に紅白の手綱。騎手は花織柄などの羽織袴に身を包み、紅白のたすき鉢巻き。馬も人もあでやかな衣装で馬場に入ると地区別に紅白二手に分かれ、決勝点(ゴール)に陣取る数人のンマビットゥー(審判)に向かって、2頭で併走しながらブレることなく前後肢を伸ばす。 — 『消えた琉球競馬』 梅崎晴光著 ボーダーインク社 2012年11月 参加できる馬は、全て体高1m20cm以下の沖縄在来馬で、ナークー(宮古馬)を中心に、シマジラー(沖縄本島島尻産馬)、エーマー(八重山馬)、クミー(久米島産馬)、イヒャー(伊平屋島産馬)など小さい在来馬であり、品種改良し、大きくなった雑種は出場できないものであった。 昭和初期の大会は、200mの馬場(ンマバ)で行われ、そのスタイルは対抗戦方式であった。事前に審判が出場馬の技量を見定め、下位の取組(とりくみ)から順に行われ、結びの一番は横綱級同士が戦うように、ほぼ同格の馬を組み合わせる大相撲のような「番組」を作成した。沖縄全島規模の大会では事前に定めた取組を地元紙に掲載していた。地区で紅白に分かれる対抗レースであるため、地元住民の応援合戦もあるほどだった。競走馬を所有できるのは金持ちや資産家であり、競走馬を所有し勝利することは、門中にとって繁栄の象徴とされていた。琉球競馬は金をかける習慣はなく、一門の名誉と家運を賭けた勝負という価値観があり、琉球競馬で勝った馬の馬主や騎手に贈呈されるのは金員ではなく、ティーサージと呼ばれる華やかな手巾(手帛:てぬぐい)であった。
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