最期への日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 00:24 UTC 版)
4月26日、空軍のローベルト・フォン・グライム上級大将が飛行士ハンナ・ライチュの操縦する飛行機に乗ってベルリン市内に入った。赤軍の対空砲火を切り抜け、砲撃で破壊された滑走路を使っての強行着陸であり、地下壕の人々は大いに沸き立った。フォン・グライムは即日元帥に昇格し、ゲーリングの後任の空軍総司令官に任命された。 4月27日、エーファの妹グレートルの夫であり、親衛隊全国指導者連絡官のヘルマン・フェーゲライン親衛隊中将が国外逃亡を図ったとして逮捕された。28日には親衛隊全国指導者ヒムラーが単独で和平交渉を行っていることが発覚した。フェーゲラインは処刑され、ヒムラーは全ての役職から解任された。 4月29日午前0時頃、フォン・グライム元帥とライチュがヒトラーの指示でベルリンを脱出した。この時、地下壕にいた者たちがライチュに手紙を託している。その後、ヒトラーは秘書官のユンゲを呼び出して、政治的遺言と個人的遺言(英語版)の口述を行った。 政治的遺言では自らのこれまでの運動を総括し、自らの死後に発足する新内閣の閣僚指名を行い、大統領にデーニッツ、首相にゲッベルス、ナチ党担当大臣としてボルマンを指名した。また、個人的遺言ではエーファとの結婚や自殺後の遺体処理方法、遺産の管理を明らかにした。 遺言書の口述が終わった午前3時頃、ヒトラーとエーファは結婚式を挙げた。ゲッベルスとボルマンが立会人と介添えを行い、ベルリン大管区監督官ヴァルター・ワグナー(英語版)によって結婚登録が行われた。その後、小会議室で簡単な披露宴が行われた。午前4時、ユンゲ夫人はヒトラーに清書した遺言書を見せ、ヒトラーやボルマンらの署名を受けた。ゲッベルスは遺言書に補遺として自らがベルリンで死ぬことを書き記した。 4月29日午前8時、ヒトラーは遺言書をデーニッツ、中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー元帥、そしてナチ党発祥の地であるミュンヘンの党本部に届けるよう使者を送り出した。このほか幾人かの総統副官に脱出許可を与えた。 午後3時、ヒトラーはベニート・ムッソリーニ処刑の報道を知った。午後6時、ゲッベルスの子供らも招いて「ベルリン市民とのお別れ」パーティーが行われた。午後10時には作戦会議が行われ、ベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング大将から戦闘は4月30日夜までしか継続できないという連絡が入った。午後11時、総統付き副官ニコラウス・フォン・ベロー(ドイツ語版)空軍大佐が、カイテルに宛てたヒトラーの書簡を持って地下壕を脱出した。ただし、ベローは途上で身の危険を感じて書簡を破棄したため、正確な内容は伝わっていない。
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