最期・列聖とは? わかりやすく解説

最期・列聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:09 UTC 版)

カール大帝」の記事における「最期・列聖」の解説

カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続原理」に従い806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め嫡男カール若王次男ランゴバルド分国ピピン末子アクイタニア分国ルートヴィヒ後継者とした。しかし、810年ピピンが、翌811年にはカール若王が父に先立って没したため、813年残ったルートヴィヒ共同皇帝とし、翌814年1月28日アーヘンにおいて71歳崩御した。遺体その日のうちにアーヘン大聖堂埋葬された。 カール列聖については、以下のような事情がある。「フリードリヒフリードリヒ1世バルバロッサ)はアーヘンに赴き、1165年12月29日心酔する偉大な皇帝カール大帝を、パスカリス(対立教皇)とりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えたアレクサンダー教皇)はこれに反対した。その理由一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者列したカールが行ったキリスト教布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬値する人物であるという点が、すべての抗議押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物反対の立場取り続けることができなかったのである」。後に、カール大帝への崇敬アーヘン司教区オスナブリュック司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)。フリードリヒ2世中世金細工工芸傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器カールシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、1215年アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュライン中にカール大帝遺骨納めたと言われている 。

※この「最期・列聖」の解説は、「カール大帝」の解説の一部です。
「最期・列聖」を含む「カール大帝」の記事については、「カール大帝」の概要を参照ください。

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