最後の月日と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:01 UTC 版)
「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「最後の月日と死」の解説
アンリ3世は自らの身を守るためにスイス兵を雇ったが、パリ市民は町を自分たちで守る権利を主張した。1588年5月12日、パリ市民は通りにバリケードを築き、ギーズ公以外のいかなる者の命令に従うことも拒否した。ミサへ行く途上のカトリーヌは行く手を阻まれ、彼女は許しを受けてバリケードを通らざる得なかった。年代記作家レトワル(英語版)は、彼女はその日の昼食の間じゅう泣き叫んだと述べている。「私は脱出する光明がわずかしかないこのような騒動に出会ったことはかつてなかった」とカトリーヌはベリエーヴルに書き送っている。カトリーヌは間一髪で危機を逃れ脱出していた国王に、この場は妥協をし、後日戦うために生きるよう何時ものように助言した。6月15日、アンリ3世は正式に統一勅令に署名をし、同盟の全ての要求を受け入れた。 9月8日、ブロワで開催されていた三部会において、アンリ3世は何らの事前警告もなしに大臣全員を解任した。肺感染症で床にあったカトリーヌは知らされていなかった。この国王の行為によってカトリーヌの権力は終わった。 三部会の会合においてアンリ3世は、それまでのカトリーヌの功績に感謝の言葉を述べ、国王の母のみならず国家の母でもあると称えた。アンリ3世は問題の解決法をカトリーヌに伝えていなかった。12月23日、アンリ3世はギーズ公をブロワ城に呼び寄せた。ギーズ公がアンリ3世の部屋に入ると、国王の護衛兵が彼の体に剣を突き刺し、ギーズ公は王のベッドの足元で死んだ。同時にギーズ家の8人が粛清され、ギーズ公の弟ギーズ枢機卿はこの翌日に地下牢で切り刻まれている。ギーズ公が暗殺された直後にアンリ3世はカトリーヌの寝室に入り、彼女に告げた。「お許しください。ギーズ殿は死にました。彼は二度と話すことはありません。私が彼を殺したのです。私は彼が私にしようとしていたことをしてやったのだ。」カトリーヌのその場の反応は知られていないが、クリスマスの日に彼女は修道士にこう語っている。「ああ、なんと哀れな人だ。彼が何をしたのか?…あの子のために祈って…私はあの子が自ら破滅へ向かっていると分かっています。」1589年1月1日、カトリーヌは古い友人のブルボン枢機卿を訪ね、間もなく自分は自由になると語った。彼は「貴女の言葉は…奥様、私たち皆を屠殺場へ送り込んで来たのです」と叫んだ。カトリーヌは涙を流しながら立ち去った。 アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの墓廟。サン=ドニ大聖堂 1月5日、カトリーヌは69歳で、おそらくは胸膜炎により死去した。「彼女に近い者たちは、彼女の命は息子の行為による苛立ちによって縮められたと信じていた」とレトワルは書き記している。パリが国王の敵に占領されていたため、カトリーヌはブロワに埋葬された。 カトリック陣営の盟主だったギーズ公の暗殺にフランスのカトリックは激昂し、パリ大学は国王に対する忠誠義務解除を宣言した。アンリ3世はユグノー陣営と同盟を結び、ナバラ王アンリとともにパリを包囲する。カトリーヌ死去から8か月後の8月2日、アンリ3世は修道士ジャック・クレマンによって暗殺された。アンリ3世の死により、3世紀近くにわたったヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世としてフランス王位を継承し、ブルボン朝が開かれた。 カトリーヌの遺体は、後にアンリ2世と愛妾フィリッパ・ドゥチの娘ディアーヌがサン=ドニ大聖堂に改葬させている。フランス革命中の1793年、彼女の遺骨は群集によって、他の王や王妃たちのものとともに集団墓地へ投げ込まれた。 後年、アンリ4世はカトリーヌについて次のように語ったと伝わる。 「 君に尋ねよう。夫を亡くし5人の子供を腕に抱えた女、王位を手に入れようと企む二つの家門――我が一族(ブルボン家)とギーズ家だ――を前にした女に何ができるのか? その明敏な女性の賢明な指導を受けて、次々と君臨した息子たちを守るために、彼女は一方を、次いでもう一方をも欺くために奇妙な役割を演じざる得なかったのではないか? 私は彼女がもっと悪辣なことをしなかったことに驚かされたよ。 」
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