景山家とは? わかりやすく解説

景山(蔭山)家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:11 UTC 版)

景山粛」の記事における「景山(蔭山)家」の解説

鳥取県境港市中野町中野村現在の境港市中野町)には景山姓が多い。同族近在多くある。景山氏は尼子氏遺臣・景山道観末裔伝えられる郷土資料によると、もと“蔭山”を11代の義春から“景山”と改めた初代木島立碩(景山義春)は長三郎の子として生まれ、京の木島氏(このしまし)に医を学んだ木島称するのは師の顧命よるものであり、子がなかったので甥の粛を養子にした。粛は文化年間に京の服部大方学び帰郷して文政の頃より医家かたわら私塾開いて子弟教えた。粛の私塾学んだ人たちの中から幕末・明治維新多く志士輩出した。粛の子龍造は、江戸梁川星巌学び、京の三条実万仕え、のち鳥取藩学館教授となった景山出身志士たちとともに激動維新史に大きな足跡残した龍造長男道遠は、明治5年1872年)境郷校開設の時、初代校長務め明治8年1875年皇漢学所の教授となり、明治10年1877年京都府師範学校転じ明治12年1879年)に帰郷した

※この「景山(蔭山)家」の解説は、「景山粛」の解説の一部です。
「景山(蔭山)家」を含む「景山粛」の記事については、「景山粛」の概要を参照ください。


景山(蔭山)家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:26 UTC 版)

景山良斎」の記事における「景山(蔭山)家」の解説

景山良斎実家の景山家は中野村当代十四代算える旧家で、良斎家はその別家として医業したもので、良斎はその四代目である。家は通称修貞屋敷といい、景山立碩家の隣りである。 初代戒名「龍堂居士文政10年1827年正月没で、医号、俗名判らない二代は「完翁機全信士天保9年1838年)没で、やはり医号、俗名不明である。 三代は、修貞といい、戒名「術道医徳居士万延2年1861年2月没した。修貞は産科婦人科を得意とし、近在に有名であったという。 良斎は甥の熊本家養子入れて十代目を継がせたが、その熊にも子がなく、夫婦養子として、景山昇、りよを入れて本家を継がせた。 良斎の子・弘(幼名弥太郎成人後は弘又は公、通称サカエ)も医師となったが、その業績明らかでない。 弘の子よしえは大阪古山家嫁いだが、中野村の景山家を継ぐものがなく、よしえに縁戚の子桂子養女入れて相続させた。桂子温子薬剤師に、知子看護師になっている中野村現在の境港市中野町)には景山姓が多い。同族近在多くある。景山氏は尼子氏遺臣景山道観末裔伝えられる郷土資料によると、もと“蔭山”を11代の義春から“景山”と改めた初代木島立碩(景山義春)は長三郎の子として生まれ、京の木島氏(このしまし)に医を学んだ木島称するのは師の顧命よるものであり、子がなかったので甥の粛を養子にした。粛は文化年間に京の服部大方学び帰郷して文政の頃より医家かたわら私塾開いて子弟教えた。粛の私塾学んだ人たちの中から幕末・明治維新多く志士輩出した。粛の子龍造は、江戸梁川星巌学び、京の三条実万仕え、のち鳥取藩学館教授となった景山出身志士たちとともに激動維新史に大きな足跡残した龍造長男道遠は、明治5年1872年)境郷校開設の時、初代校長務め明治8年1875年皇漢学所の教授となり、明治10年1877年京都府師範学校転じ明治12年1879年)に帰郷した

※この「景山(蔭山)家」の解説は、「景山良斎」の解説の一部です。
「景山(蔭山)家」を含む「景山良斎」の記事については、「景山良斎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「景山家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「景山家」の関連用語

景山家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



景山家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの景山粛 (改訂履歴)、景山良斎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS