景山(蔭山)家
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(鳥取県境港市中野町) 中野村(現在の境港市中野町)には景山姓が多い。同族は近在に多くある。景山氏は尼子氏の遺臣・景山道観の末裔と伝えられる。郷土資料によると、もと“蔭山”を11代の義春から“景山”と改めた。初代木島立碩(景山義春)は長三郎の子として生まれ、京の木島氏(このしまし)に医を学んだ。木島を称するのは師の顧命によるものであり、子がなかったので甥の粛を養子にした。粛は文化年間に京の服部大方に学び、帰郷して文政の頃より医家のかたわら私塾を開いて子弟に教えた。粛の私塾に学んだ人たちの中から幕末・明治維新に多くの志士が輩出した。粛の子龍造は、江戸の梁川星巌に学び、京の三条実万に仕え、のち鳥取藩の学館教授となった。景山塾出身の志士たちとともに、激動の維新史に大きな足跡を残した。龍造の長男道遠は、明治5年(1872年)境郷校開設の時、初代校長を務め、明治8年(1875年)皇漢学所の教授となり、明治10年(1877年)京都府師範学校に転じ、明治12年(1879年)に帰郷した。
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景山(蔭山)家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:26 UTC 版)
景山良斎実家の景山家は中野村で当代で十四代を算える旧家で、良斎家はその別家として医業をしたもので、良斎はその四代目である。家は通称修貞屋敷といい、景山立碩家の隣りである。 初代は戒名「龍堂雲臥居士」文政10年(1827年)正月没で、医号、俗名は判らない。 二代は「完翁機全信士」天保9年(1838年)没で、やはり医号、俗名は不明である。 三代は、修貞といい、戒名「術道医徳居士」万延2年(1861年)2月に没した。修貞は産科、婦人科を得意とし、近在に有名であったという。 良斎は甥の熊蔵を本家の養子に入れて十代目を継がせたが、その熊蔵にも子がなく、夫婦養子として、景山昇、りよを入れて本家を継がせた。 良斎の子・弘(幼名は弥太郎、成人後は弘又は公、通称はサカエ)も医師となったが、その業績は明らかでない。 弘の子よしえは大阪の古山家に嫁いだが、中野村の景山家を継ぐものがなく、よしえに縁戚の子桂子を養女に入れて相続させた。桂子、温子は薬剤師に、知子は看護師になっている。 中野村(現在の境港市中野町)には景山姓が多い。同族は近在に多くある。景山氏は尼子氏の遺臣・景山道観の末裔と伝えられる。郷土資料によると、もと“蔭山”を11代の義春から“景山”と改めた。初代木島立碩(景山義春)は長三郎の子として生まれ、京の木島氏(このしまし)に医を学んだ。木島を称するのは師の顧命によるものであり、子がなかったので甥の粛を養子にした。粛は文化年間に京の服部大方に学び、帰郷して文政の頃より医家のかたわら私塾を開いて子弟に教えた。粛の私塾に学んだ人たちの中から幕末・明治維新に多くの志士が輩出した。粛の子龍造は、江戸の梁川星巌に学び、京の三条実万に仕え、のち鳥取藩の学館教授となった。景山塾出身の志士たちとともに、激動の維新史に大きな足跡を残した。龍造の長男道遠は、明治5年(1872年)境郷校開設の時、初代校長を務め、明治8年(1875年)皇漢学所の教授となり、明治10年(1877年)京都府師範学校に転じ、明治12年(1879年)に帰郷した。
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