景年塾時代
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地元の明倫尋常小学校へ入学。同級に久保田金僊や森本東閣(幸野楳嶺の子)、洋画家になる芝千秋がいた。下京区高等小学校を経て、京都府立商業学校予科へ進むが、簿記や算術に興味を持てず中途退学する。明治25年(1892年)12月、同年亡くなった父の知己で、当時京都画壇の大家であった今尾景年に弟子入りする。景年は「桜谷」の号を与え、父を早く亡くした桜谷の父親的存在だった。また同じ頃、儒医・本草学者・写生画家だった山本渓愚に儒学・本草学・経文漢学を学ぶ。元来、文学少年だった桜谷は「論語読みの桜谷さん」とあだ名されるほどの愛読家となり、昼は絵画制作、夜は漢籍読書の生活を送る。入門翌年に早くも第三回青年絵画共進会に「芙蓉小禽図」を出品し褒詞を受け、同第四回展にも「春野郊歩図」で三等褒状となるなど、景年塾を代表する画家として成長していく。
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