京都画壇の大家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 16:29 UTC 版)
明治21年(1888年)41歳の時、京都府画学校を退職。明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「雪景山水図」が妙技三等。一方で明治25年(1892年)森寛斎、谷口藹山、岸竹堂、望月玉泉らと小春会を結成、古画の研究に努めた。明治33年(1900年)鉄斎と室町時代の大家・相阿弥の墓を探しに、円山の安養寺を訪ねている。明治26年(1893年)シカゴ万国博覧会に「雪中寒鴉図」「春景山水図」を出品する。第四回内国勧業博覧会でも、「群仙図」「嵐山春景」を出品、後者で再び妙技三等。明治29年(1896年)日本美術協会が結成されると、その第一回共進会に「月下擣衣図」を出品、一等褒状を受ける。明治32年(1899年)日本絵画協会第七回日本美術院連合第二回展で「秋林」が銅賞。明治33年(1900年)パリ万国博覧会で発表した「松㵎水声」で銅賞を取る。明治36年(1903年)から翌年にかけて『松年画譜』が刊行される。
※この「京都画壇の大家」の解説は、「鈴木松年」の解説の一部です。
「京都画壇の大家」を含む「鈴木松年」の記事については、「鈴木松年」の概要を参照ください。
- 京都画壇の大家のページへのリンク