春の例祭「山王祭」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 05:08 UTC 版)
「山王宮日吉神社」の記事における「春の例祭「山王祭」」の解説
山王祭は、かつては「4月の中の申の日」に執り行われ、現在は毎年5月15日に執り行われる例祭で、関連する行事は5月13日より始まる。発祥は安土桃山時代に宮津城が築城され、城下町が形成されるより以前まで遡る。申の日に行われたのは猿が山王の神の使いである神使であることによる。1858年(安政5年)より4月15日に固定され、明治に入り新暦に合わせて藩主の命により5月15日に定められた。例祭は江戸時代には藩祭とされ祭礼行列には馬や槍などの藩士がその行列に参加した。祭礼出し物は宮津城内へも入り、藩主がこれを見物して褒美を与えた記録が残る。祭には神輿を中心に漁師町の浮太鼓、宮町の神楽、また城下の主な町内が練り物や最大26基の芸・山屋台を繰り出して子供歌舞伎を行った。城下挙げての祭礼は宮津祭とも称されるようになった。 明治期の町人・戸祭乗泰の日記では、明治時代末期の祭日の様子を次のように伝えている。 明日はわが氏神の祭典なり、町には鼓笛のひびき楽しげなり(明治40年5月9日) 現在祭礼は8町による輪番で山王宮太神楽と呼ばれる獅子舞が13日から繰り出される。これは各家の厄払いと共に神輿の神幸道中を先に清める役割を持つためである。翌14日からは漁師町の浮太鼓と呼ばれる太鼓の伝統芸能が参加する。浮太鼓は芸能と共に15日の神輿の神事に深く係わる役割を持ち発御還御ともに神輿のすぐ後でこれを鼓舞する。漁師町浮太鼓は近辺で見られる太鼓芸の原型であり宮津市の無形民俗文化財に指定されている。神輿巡幸は宮津城下の平安を祈る重要な儀式とされ、神社より海を隔てた向かい岸の波路御旅所まで進む。江戸時代には宮津城はその途中にあり、藩主は大手門、波路門を開放して神輿の通行を許した。今も巡幸順路は当時と大きく変わることなく継承されている。宮津各所で祈願を終えた神輿は漁師町に於いて夕闇の中「練り込み」と呼ばれる疾走の往復を幾度も行い、神楽、威儀物、浮太鼓と共に石段を上り浄闇の中で還幸を果たす。 境内祓戸での修祓の儀 幣殿で奉納される巫女舞 山王宮太神楽 宮司家前に並ぶ威儀物と浮太鼓 神輿に神が遷る 発御 宮津城下へ下る神輿 還御 城下より神社に還る
※この「春の例祭「山王祭」」の解説は、「山王宮日吉神社」の解説の一部です。
「春の例祭「山王祭」」を含む「山王宮日吉神社」の記事については、「山王宮日吉神社」の概要を参照ください。
- 春の例祭「山王祭」のページへのリンク