春の二冠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:21 UTC 版)
1941年3月15日、横浜開催初日の新呼馬戦でデビュー。12頭立て7番人気と低評価だったが、2着に5馬身差を付けて初勝利を挙げた。このとき、単勝払い戻しは法定上限の200円で、不的中者にも7円50銭の特配(特別給付金)が払い戻された。2週間後の同30日、クラシック初戦の横浜農林省賞典四歳呼馬(のちの皐月賞)に出走。同期の最高額馬ミナミモアを抑えて1番人気に推されると、レースでは同馬に3馬身差を付けて優勝を果たした。小西はミナミモアに勝ったことに非常に驚いたといい、「ほんとうに強いなとおもったのはこのときからだ」と語っている。本競走は翌年に弟のアルバイトが優勝して兄弟による連覇を達成、1949年にはトサミドリも優勝し、史上唯一の記録である三兄弟による同一クラシック競走制覇を達成している。 なお、デビュー前には、仕上がりが早かったブランドソールを横浜から使い、セントライトは4月の中山開催から使われる予定だった。しかし2月末の調教でセントライトがブランドソールを抑えていたことや、加藤の強い要望があってセントライトの方が先に使われた。もしも厩舎での見込み通り事が運んでいれば、横浜農林省賞典四歳呼馬への出走機会はなかったことから、小西はこれについて「運命的」だったと語っている。 その後は中山開催の2戦を連勝。地元東京での初出走となったハンデキャップ競走では58kgの斤量を背負い、アタマ差で2着となり初の敗戦を喫したが、東京優駿競走(日本ダービー)への一叩きとして臨んだ古呼馬戦では、当年秋の帝室御賞典(天皇賞の前身=のちの「天皇賞(秋)」)に優勝する5歳馬エステイツを破って勝利を挙げた。 5月16日の東京優駿競走は、前夜までの降雨の影響によって重馬場となった。セントライトは横浜で破ったミナミモアに1番人気を譲って2番人気、中山四歳牝馬特別(のちの桜花賞)を制して来たブランドソールが3番人気であった。レースでは道中3番手を進むと、最終コーナーで小西が手綱を抑えたまま先頭に立った。さらに残り200メートル付近からスパートを掛けると、後続を一気に突き離し、2着ステーツに8馬身差を付けて圧勝した。この着差は1955年の優勝馬オートキツに並び、ダービー史上最大着差となっている。小西はこの圧勝劇について「道悪に恵まれたせいもあったには違いない」としながらも、もしも快晴の良馬場で行われていたら、「レコードを少なくとも一つ(1秒)は詰めていただろう」と述べている。小西はこれがダービー初優勝、調教師の田中と馬主の加藤は、いずれも1939年に優勝したクモハタに次ぐ2度目のダービー制覇となった。
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