映画との離別、舞台でのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 16:22 UTC 版)
「ダイアナ・セラ・キャリー」の記事における「映画との離別、舞台でのキャリア」の解説
ベイビー・ペギーの映画職歴は、父親が彼女の給与を巡ってプロデューサーのソル・レッサーと仲違いして契約解除になった1925年に突如終了した。彼女は、父親とスタジオ責任者との行動が理由で、自分自身が事実上のブラックリストに入ってしまったことに気付いた。そして1926年には、無声映画『April Fool』の端役でもう1作出演するのが精一杯だった。 1925年から1929年にかけて、ペギーはボードヴィルの演者として成功を収めた。寸劇、歌唱、劇的な一人芝居がある彼女のいつもの手法には、懐疑論が当初出たものの、ほどなく人気の高い尊敬される演技となっていった。若い頃から「パレスで演じる」ことは禁じられていたが、特別ゲストとして舞台に上った。ペギーと彼女の家族は、一家がツアーに飽きるまで、米国とカナダをめぐって主要な会場でツアー公演した。 ボードヴィル巡業時、ペギーはたびたび扁桃炎やその他疾患に罹ったが、それでも彼女は働き続けた。その様子を彼女は『What Ever Happened to Baby Peggy?(直訳:ベイビー・ペギーにこれまで何が起こったのか?)』に書いている。母親はペギーの健康状態を気にしており、ツアーの乱雑な生活をやめるもう1つの理由となった。 ペギーの両親は彼女が映画界から追放された後も過度な出費を続け、彼女が作った200万ドルの大半を不必要に豪勢に浪費した。ペギーの父親は大牧場を購入してそれを高級な保養地に変えようと計画したが、1929年の株価大暴落でこの計画は即中止となった。モンゴメリーはビバリーヒルズの家を売却せざるを得なくなり、土地と既存資産で75,000ドルの預金を作ってワイオミング州の農村部に移り住んだ。 ペギーは出演ペースの変化が元気を回復させていることに気付き、自分のステージ日程が終わることを望んだ。しかし、一家は生計を立てるのに苦労し、1930年代初頭にハリウッドへと戻る死に物狂いの努力は、ティーン時期のペギーにとって悔しいことだらけだった。2012年のインタビューで彼女が語ったことでは、自分には1日3ドルが支払われ、他のエキストラの多くは自分が一緒に育った他の無声映画のスター俳優たちであり、総じて彼らはその仕事を「ガレー船奴隷」のようだと考えていた。 ペギーはダグラス・フェアバンクスと宣材写真を撮り、新しいマネージャーと契約した。再起への希望は、一度も受けたことがない撮影審査の悪いデマによって大部分が打ち砕かれた。一家は映画救済基金 (Motion Picture Relief Fund) からの食料配給券の利用が頼みの綱となった。ロサンゼルスの教育委員会がペギーは学校に通う必要があると主張し、最初は子役向けの柔軟な時間割りがあるラウラー(Lawlor)専門学校に在籍、そこではミッキー・ルーニーやジュディ・ガーランドと同級生だった。後に一家全員が別の仕事を余儀なくされた期間中はフェアファックス高校に通った。彼女は映画の仕事に嫌気がさし、1938年に『処女読本(Having Wonderful Time)』に出演した直後に引退した。 1940年の春、ペギーのキャリアは非常に低くなってしまい、報道記者ウォルター・ウィンチェルは自身のコラム記事「On Broadway」で、ペギーとその夫ゴードン・エアーズが現在はニューヨークの小さな家具付きの部屋で暮らしていてドーナツばかりを食べていることや、ペギーが映画の仕事を探している間にゴードン・エアーズがバーテンダーとして働いていることを報告した。
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