明六社の発足
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明六社は、明治初期にアメリカ帰りの森有礼が西村茂樹に相談して設立した結社。社名は明治六年(1873年)に結成されたことに因む。その設立目的は以下のようなものであった。 社を設立するの趣旨は、我国の教育を進めんがために有志の徒会同して、その手段を商議するにあり。また、同志集会して異見を公刊し、知を広め識を明にするにあり。 — 明六社制規第1条、明治7年2月 すなわち西欧のように知識人たちが集って親交と学識を深めつつ、民衆を啓蒙するために設立された団体であった。明治日本にとって最大の目標は、富国強兵を実現し西欧列強に互することであったことはいうまでもない。そのために西欧をモデルとして様々な技術や人(お雇い外国人)、制度を移入することで明治維新が進められたが、やがてそういった枠組みを受容するだけではなく、人間という中身も変革(雑誌のことばでいえば「民心の一新」)することを目指す啓蒙思想が興ってきた。そして「文明国」という「世界標準」に追いつくためには、民衆を「文明国」的「国民」へと改鋳すべきだという使命感を持ち活動した人々を啓蒙家という。この啓蒙家が集まったのが明六社であったのである。 明六社の核となった同人には森、西村に誘われて津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、福澤諭吉、杉亨二、箕作麟祥など、当時を代表する錚々たる知識人たちが参加した(以下の文では適宜単に名字のみを記す)。かれらには幾つかの共通点がある。まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角を現し、幕府の開成所などに召し抱えられていたことである。これと関連して、その多くが幕末明治期かいずれかに洋行の経験があって、尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった。また福澤を除けば、明治以後は官吏として維新政府に仕えていたことも特徴といえる。 上記のような欧米事情に明るい知識人たちが、啓蒙するための手段として選択したのが定例演説会と雑誌発行であった。両者は不可分の関係にある。何故なら、定例演説会で個別のテーマについて意見交換し、それを基に筆記したものが『明六雑誌』に掲載されたからである。こうした新しい知の情報伝達は『明六雑誌』の成功に大きく貢献した。ちなみにこの「演説」ということばは福澤がスピーチにあてた訳語であるといわれる。また演説会が開かれたのは、洋食好みが多かったこともあって築地精養軒であった。
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