明六社の発足とは? わかりやすく解説

明六社の発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 15:34 UTC 版)

明六雑誌」の記事における「明六社の発足」の解説

明六社は、明治初期アメリカ帰り森有礼西村茂樹相談して設立した結社社名明治六年(1873年)に結成されたことに因む。その設立目的は以下のようなものであった。 社を設立する趣旨は、我国の教育進めんがために有志の徒会同して、その手段を商議するにあり。また、同志集会し異見公刊し、知を広め識を明にするにあり。 — 明六社制規第1条明治7年2月 すなわち西欧のように知識人たちが集って親交学識深めつつ、民衆啓蒙するために設立され団体であった明治日本にとって最大目標は、富国強兵実現し西欧列強に互することであったことはいうまでもない。そのために西欧モデルとして様々な技術や人(お雇い外国人)、制度移入することで明治維新進められたが、やがてそういった枠組み受容するだけではなく人間という中身変革雑誌のことばでいえば「民心一新」)することを目指す啓蒙思想興ってきた。そして「文明国」という「世界標準」に追いつくためには、民衆を「文明国」的「国民」へと改鋳すべきだという使命感持ち活動した人々啓蒙家という。この啓蒙家が集まったのが明六社であったのである明六社となった同人には西村誘われて津田真道西周中村正直加藤弘之箕作秋坪福澤諭吉杉亨二箕作麟祥など、当時代表する錚々たる知識人たちが参加した(以下の文では適宜単に名字のみを記す)。かれらには幾つかの共通点がある。まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角現し幕府開成所などに召し抱えられていたことである。これと関連して、その多く幕末明治期いずれかに洋行経験があって、尊皇攘夷思想染まった経験がなかった。また福澤除けば明治以後官吏として維新政府仕えていたことも特徴といえる上記のような欧米事情明る知識人たちが、啓蒙するための手段として選択したのが定例演説会雑誌発行であった両者不可分の関係にある。何故なら、定例演説会個別テーマについて意見交換し、それを基に筆記したものが『明六雑誌』に掲載されたからである。こうした新しい知の情報伝達は『明六雑誌』の成功大きく貢献したちなみにこの「演説ということばは福澤スピーチにあてた訳語であるといわれる。また演説会開かれたのは、洋食好み多かったこともあって築地精養軒であった

※この「明六社の発足」の解説は、「明六雑誌」の解説の一部です。
「明六社の発足」を含む「明六雑誌」の記事については、「明六雑誌」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明六社の発足」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明六社の発足」の関連用語

明六社の発足のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明六社の発足のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの明六雑誌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS