方法論の確立とは? わかりやすく解説

方法論の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 02:35 UTC 版)

カール・バルト」の記事における「方法論の確立」の解説

1935年6月バーゼル大学神学教授招聘され精力的に著作活動展開する1936年にかけてチェコハンガリー講演行った。この旅行チェコ神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカ親交を結び、予定論の古典的解釈改めるという収穫得た1937年3月アバディーン大学講演行ったことで、バルトの中で次のような枠組みできあがった。神ひとりが神であり、人間という他者依存しないため、この自己依存性 (aseitas) が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間創造し語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、「神我とともにいます(インマヌエル)」という神のあり方神の愛である、というキリスト論方法論バルト確立させる至った同年9月セント・アンドリュース大学より名誉博士号を受ける。同年、『教会教義学第一巻完成した1938年3月にはオックスフォード大学より名誉博士号を受ける。バルト神学理解したのがスコットランド神学者たちであったことと、政治的にバルトナチス批判高く評価していたことが背景にあった1939年9月第二次世界大戦勃発に対してバルトナチス神学的に批判した思想だけでなく軍事面でもナチス脅威から防衛するべき、という考え至って1940年在郷軍人資格スイス軍入隊する。このとき彼は54歳であったが、熱心な軍務取り組みにより監視警戒を行う歩哨の任に就いた。しかし上官への敬礼忘れ危うく懲罰房送られそうになるというハプニング起こしている。戦争終わりに近づいたころ、以前ナチスへの攻撃とは反対にドイツ人の友であると宣言した。彼らの進んだ道は看過できることではないが、戦火収まればきっとやり直せると信じていたからであった1945年8月バルト破壊されドイツ訪問マールブルクブルトマン訪ねたほか、援助奔走した1949年以来、西と東に分断されドイツの政治的な和解について語り続けたほか、ドイツの再軍備反共政策について批判した。しかしこれによりソビエト連邦アメリカ合衆国ドイツ知識人からも批判・非難の矢にさらされた。苦境陥ったバルト弁護するかのように1952年英国女王から自由のために奉仕した人物としてメダル授与された。

※この「方法論の確立」の解説は、「カール・バルト」の解説の一部です。
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