方法論の確立
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1935年6月、バーゼル大学の神学教授に招聘され、精力的に著作活動を展開する。1936年にかけてチェコ、ハンガリーで講演を行った。この旅行でチェコの神学者のヨセフ・ルクル・フロマートカと親交を結び、予定論の古典的解釈を改めるという収穫を得た。1937年3月にアバディーン大学で講演を行ったことで、バルトの中で次のような枠組みができあがった。神ひとりが神であり、人間という他者に依存しないため、この自己依存性 (aseitas) が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間を創造し、語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、「神我らとともにいます(インマヌエル)」という神のあり方が神の愛である、というキリスト論的方法論をバルトは確立させるに至った。同年9月にセント・アンドリュース大学より名誉博士号を受ける。同年、『教会教義学』第一巻が完成した。1938年3月にはオックスフォード大学より名誉博士号を受ける。バルトの神学を理解したのがスコットランドの神学者たちであったことと、政治的にバルトのナチス批判を高く評価していたことが背景にあった。 1939年9月の第二次世界大戦の勃発に対して、バルトはナチスを神学的に批判した。思想だけでなく軍事面でもナチスの脅威から防衛するべき、という考えに至って、1940年に在郷軍人の資格でスイス軍に入隊する。このとき彼は54歳であったが、熱心な軍務の取り組みにより監視・警戒を行う歩哨の任に就いた。しかし上官への敬礼を忘れ、危うく懲罰房に送られそうになるというハプニングを起こしている。戦争が終わりに近づいたころ、以前のナチスへの攻撃とは反対にドイツ人の友であると宣言した。彼らの進んだ道は看過できることではないが、戦火が収まればきっとやり直せると信じていたからであった。1945年8月にバルトは破壊されたドイツを訪問、マールブルクのブルトマンを訪ねたほか、援助に奔走した。1949年以来、西と東に分断されたドイツの政治的な和解について語り続けたほか、ドイツの再軍備と反共産政策について批判した。しかしこれによりソビエト連邦とアメリカ合衆国、ドイツの知識人からも批判・非難の矢にさらされた。苦境に陥ったバルトを弁護するかのように1952年に英国女王から自由のために奉仕した人物としてメダルを授与された。
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