新京新市街
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1932年(大同元年)3月、満鉄経済調査会に於いて新京都市計画の立案が開始された。一方、同年4月1日に満洲国国務院直属の「国都建設局」が設置され、新京の地形測量及び地籍測量と国都建設の立案を開始した。同年8月、関東軍特務部の主催による、関東軍・満鉄・満洲国国務院の3者による連合打合会が開催され、満鉄経済調査会と国都建設局の両案が比較された。執政府及び官庁街の位置を巡って満鉄経済調査会、国都建設局の双方が対立したが、同年11月17日、満鉄経済調査会案を取り入れた国都建設局の最終変更案が決定された。また、事業開始に先立ち、国都建設計画区域内及びその周囲一円内に対する地債売買禁止令を発布し、民間に於ける土地の売買・担保等が禁止され、土地の買い占めや地価高騰等の弊害を除去した。 新京の都市計画は満鉄附属地を基準に、新京駅前から南に延びる中央通を更に南に延長し、大同大街と呼ばれる大通りを建設した。途中には大同広場と呼ばれる大ロータリーが建設されて新京の都心とされた。大同広場の西方には執政府(後の帝宮)造営地が設けられ、その南面を東西に興仁大路、南方へ順天大街と呼ばれる幹線道路が造られた。政治の中枢は順天大街から南方の安民広場に亘る官庁街、文化・教育中枢は南嶺地区、交通の中枢は新京駅と孟家屯駅との中間に新設する中央大停車場(後の南新京駅)を建設して市の玄関口とした。また、東方の伊通河沿岸を区画して工業地域とし、市民を煤煙と騒音から遠ざけるようにした。その他に、国際飛行場、国際大運動場、競馬場、建国大記念塔、大記念門、建国記念公会堂等の建設が計画された。 財務部、文教部、司法部、外交部、国都建設局、国道局等の諸官庁は新市街に建設され、国務院、首都警察庁等の大建築物の建設も行われた。なお、満洲国官吏の多くもこの区域に住居を建設した。 新京の公園、広場、街路の名称は、建国の理想を如実に表現し得るもの、及び満洲国内各地の名称中で含蓄、余韻があるもので、音調宜しく記憶しやすい物を選定し、1933年(大同2年)4月19日付で布告された。また、建設計画区域内の村落で適当な名称は、その因縁を考慮して該当地点の街路名に保留採用した。
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