文芸作品における判官贔屓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:06 UTC 版)
「判官贔屓」の記事における「文芸作品における判官贔屓」の解説
義経を描いた文芸作品は、「氾濫」と評されるほど数多く生み出されている。義経を「血肉の通った英雄」にしたと評される『平家物語』や『源平盛衰記』を経て、「最初の義経一代記」といわれる軍記物語『義経記』が成立したのは室町時代のことであった。『義経記』は「歴史への願いからその伝記を物語ろうとする」動機から、「歴史(事実)のないところに新しい歴史(虚構)を成立させ、確かな歴史のあるところでは、歴史を避けて物語にこれを転じてゆく形で、伝説を形成する」手法によって作り上げられた作品であり、義経に「至れり尽くせりの英雄として国民的な偶像化」を施し、歴史的な英雄から国民的な英雄へと転換させ、もって判官贔屓を主題化した。『義経記』は「判官もの」と呼ばれる御伽草子、謡曲、狂言、舞曲、歌舞伎・浄瑠璃などの作品群の大本となったが、「判官もの」においては、「『義経記』に大成された新しい統一理念像のようなものが、思い思いの個別英雄像に分解して」いき、その過程で理想の英雄、讃仰の対象たる義経像が作り出され、英雄崇拝としての判官贔屓が具体化した。義経にまつわる「物語が組み立てた説話」は「事実あった歴史」と区別されることなく人々に受け入れられ、両者が一体化したものが義経の伝記として認識され、物語化され伝説化された伝記の存在によってはじめて「義経の伝記がほんとうに義経らしくなる」という「一見して矛盾した事情」を生んだ。歴史学者の高橋富雄は、判官贔屓とは義経に対する贔屓一般を指すのではなく、『義経記』を成立させたような精神態度に象徴される特殊な形態の贔屓であるとしている。 判官贔屓の基底にある「源平の争乱で華々しく活躍した後、悲劇的な死を迎える」という義経像については、日本人が伝統的に好む貴種流離譚との共通性が指摘されている。これについて高橋富雄は、人々が義経の物語を作る中で武将物語だけでは満足できなくなり、「もう一つの英雄類型たる王朝貴公子の役を割りあて」たのだとしている。国文学者・民俗学者の池田弥三郎も、義経の生涯が貴種流離譚に当てはまるというよりは、義経の伝記が貴種流離譚の類型に「歩み寄り、歩調を合せている」と指摘し、「義経の物語が、義経に同情をよせざるを得ないような内容を持ち、それが広く流布していった事実の原因は、実は義経の実人生に由来するのではなく、それよりも、その実歴以前にすでに用意せられていた。従って、『判官びいき』という諺が生まれ、流布する余地は、実は、判官義経の実人生が始まる前から用意されていたのである」と総括している。
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