文明の変遷と完成、文明の型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 12:29 UTC 版)
文明のゆるやかな成立 新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つであるが、紀元前5300年頃のウバイド文明から、ウルク期の紀元前3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる。 また、アンデス文明は、紀元前1000年ごろに文明が発生し、1500年ごろ滅んだが、この文明において文字は存在しなかった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった。 灌漑と文明 「四大文明」および「四大河文明」も参照 シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代のエリコやチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた。メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明は、灌漑文明で、都市への定住と分業、パピルスや粘土板、竹簡に記された文字などの共通の特徴を持つ。 上記の四大文明はすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。特にエジプト文明においては、ナイル川の氾濫は上流から肥沃な土を運んでくるものであり、その定期的な氾濫を利用した氾濫農耕が文明の基盤となった。そしてこの氾濫を管理する必要性から、文明が徐々に発達してきた。これに対し、特にメソポタミア南部のシュメール人居住地区ではナイル川流域に比べ氾濫が強力なものであり、このため氾濫は利用するよりも制御されるべきものとなって、かわりにこの地域には広く灌漑網が張り巡らされ、その灌漑農耕の管理を通じて文明が成長していった。 ただし、大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではなく、メソアメリカ文明やアンデス文明においては文明圏内に文明すべてを支えきれるような大河川は存在していなかった。しかし大河がないからと言って灌漑がおこなわれていなかったわけではなく、上記文明以外でもすべての文明は食糧供給の基盤として灌漑農耕を据えており、これはアステカやインカといった新大陸の文明も例外ではなかった。アステカはチナンパ農耕と呼ばれる湿地での優れた灌漑農業システムを保持しており、また山岳地における用水路を利用した灌漑農耕も行われていた。インカにおいても各地で灌漑は行われていた。マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている。
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