放置と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:51 UTC 版)
しかし列強が接触するほど重要な存在と見なされた当鉄路も、親である昂昂渓-斉斉哈爾間の鉄道=斉克鉄路がどんどんと北に伸びて発展していくのに対し、いまだにのんびりとしたローカル線のままであった。そもそも同じ区間の路線を造ろうというのに、その一部として取り入れずに並行の別線を敷いて買収したこと自体がおかしなことであった。このために、斉昂軽便鉄路は並行線問題に苦しめられるようになって行く。 このような実質的な放置状態の中、1929年8月に斉克鉄路は楡樹屯駅から当線へ向けて連絡線を敷設、合流地点に当線の終点と同名の昂昂渓駅を設置した。この連絡線の敷設により、本体の並行線問題が解決しないままの当線は、さらに客を奪われ青息吐息となってしまった。 一方、斉昂軽便鉄路をこのような苦境へ追い込む間接的な原因となった列強同士の鉄道敷設競争は、新たな局面を迎えていた。「反日」を掲げ強硬策を採る奉天軍閥に対し堪忍袋の緒が切れた関東軍は、1931年9月18日の柳条湖事件で奉天軍閥が南満州鉄道の線路を爆破したと言いがかりをつけ、交戦状態に持ち込んで翌1932年には潰してしまった(満州事変)。これにより、鉄道敷設競争は日本の武力による圧勝で終わる。 これにともない中国資本の鉄道は新たに樹立された傀儡政権・満州国が利権を全て引き継ぎ、さらに翌年の1933年2月9日に法律によって路線そのものも国有化、営業が南満州鉄道へ委託された。これによって当線の事実上の親会社である斉克鉄路は、満州国有鉄道斉克線となったのである。 だが、当鉄路は国有化の対象とはならず、相変わらず今にも倒れそうな状態で運営を続けていた。しかし並行線問題と自動車輸送の発達によってついに限界となり、1935年4月に満州国政府に対して補償買収を請求。同年9月22日に買収されたが、満州国鉄の一部とはならず、国営企業となって同一名称のまま運行が続けられる。そして翌1936年9月21日に廃止届を提出し、同年9月30日をもって廃止となった。満州最古の純粋中国資本鉄道として地元に尽くし続けて来ながら、その路線位置のゆえに政治と利権に翻弄された挙句の悲惨な終焉であった。 なお廃線後の線路は満州国政府が買い上げた後、哈爾浜市の郊外・天理村の事務所に払い下げられ、同村が建設しようとしていた天理村軽便鉄道(のちの天理鉄道)の線路として再利用された。
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