放漫経営による崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:08 UTC 版)
「W★INGプロモーション」の記事における「放漫経営による崩壊」の解説
過激なデスマッチと豪華な外国人選手路線で上昇ムードだったが、茨城の経営は放漫そのものであり度々問題を起こしていた。興行の開始時間が予定より30分以上遅れるのが常態化していたのもさることながら、特に茨城によるギャラの未払いや借金の踏み倒しは有名となっていて全試合終了後に駐車場で選手たちに詰め寄られている姿が専門誌に掲載されたほどである。 この様な経営状態もあってか、1993年以降、主力選手であったポーゴと松永がFMWの引き抜き工作によって離脱し、さらに戸井ら中堅選手も多くが離脱。加えて無断欠場を続けていた徳田が解雇されるなど、選手層の弱体化は明白なものとなっていた。一説には契約書すら存在していない状態だったと言われている。 松永とポーゴの離脱以降は、金村をエースに据え、FMWから転じた中牧昭二らが屋台骨を支えた。しかし、選手の戦力層の薄さは明白となっており、ユニバーサル・プロレスリングを離脱してメキシコ経由で参戦してきた邪道、外道とオリエンタルプロレス所属だった荒谷信孝(現:荒谷望誉)など、所属選手外の選手に依存せざるを得なかった。その様な中で1993年10月31日、小田原駅前旧市営球場大会でのスクランブルファイヤータッグデスマッチで、金村が邪道によるパワーボムを火が回ったマットへ受けて背中に大火傷を負い戦線を離脱すると、その傾向が顕著な形になった。代表的な例として12月2日の「旗揚げ2周年記念大会」(駒沢オリンピック公園総合運動場体育館)ではメインイベントを中牧&荒谷組対邪道&外道組戦が務め、このほかにSPWF(仲野信市、島田宏(元W★INGプロモーション所属選手)ら)、PWC(高野拳磁)、IWA格闘志塾(鶴見五郎)などの他のインディペンデント団体(レスリング・ユニオン加盟団体)の協力を得て開催。 1994年、フリー参戦でありながら主軸となっていた邪道と外道と所属選手であった非道(現:BADBOY非道)が相次いで離脱すると、さらにマッチメイクにも苦慮するようになった。同じく経営危機の状態となっていたNOWからケンドー・ナガサキが参戦するなどテコ入れもあったが、3月13日に行われたアメニティトライアル多摩21(東京都八王子市)大会直後に完全に金銭面で行き詰まった茨城が失踪する事態となり、自然消滅の形でW★INGプロモーションは崩壊した。本来なら4月26日に後楽園ホールで大会が予定されていたが、茨城の失踪に伴い中止となり、それまで二人三脚体制で支えてきたキニョネスは5月にI.W.A.JAPANを設立して残された選手の救済に当たった。 活動末期まで在籍していた金村、中牧、またフリーとして定着参戦していた荒谷らはキニョネスが設立したI.W.A.JAPANに移籍。このうち金村と荒谷は結局、I.W.A.JAPANの水に馴染めず短期間で離脱して金村はFMWに参戦してポーゴ、松永らと共にユニット「W★ING同盟」を結成。一方、荒谷はWARに参戦して邪道、外道らユニット「冬木軍」との結託を経てWAR正規軍に合流。 崩壊後もW★INGは、その後も幾度か復活と休止を繰り返して後述の通り、プロレス団体の活動時期を区別する場合は第1次W★ING、第2次W★INGなどと分類される。
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