捜査の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 06:18 UTC 版)
「1891年3月14日のリンチ事件」の記事における「捜査の開始」の解説
ヘネシーはニューオーリンズで非常に人気があり、殺人犯逮捕に対する警察当局へのプレッシャーは凄まじかった。ヘネシーを署長に任命したニューオーリンズ市長のジョセフ・A・シェークスピアは捜査官に対して「全ての近隣住民を調べ、出会ったイタリア人は片っ端から逮捕せよ。」と命じた。そのため事件後24時間で45人ものイタリア系住民が逮捕された。一連の報告書によると250人以上のイタリア系住民が逮捕された。しかしほとんどが証拠不十分で釈放された。イタリア系住民は家から出ることを恐れたが、事件から数日後に混乱は収まり、仕事に戻っていった。 ヘネシーの死から数日後、シェークスピア市長は市民に対して「ヘネシーはシシリア人の復讐による犠牲者だ。我々がこの事件を忘れないことを犯人たちに伝えよう」と訴えた。さらに市長は捜査委員会に対し、秘密結社、暗殺教団等あらゆる組織に対し、徹底的かつ迅速で効率的な捜査を行うよう要請した。10月23日に捜査委員会はイタリア系アメリカ人のコミュニティーに対して情報提供を呼びかけ、恫喝とも取れるような文書を送り付けた。 私たちが発するこの声明が私たちと同じ魂を持つあなた方に届くことを望む。さすれば法に基づかない厳しく切迫した方法は取られないであろう。有罪無罪を問わないあなた方からの情報提供が行われるべきである。 結局19人のイタリア系住民が殺人及びその共犯容疑で逮捕され、保釈金なしで刑務所に収監された。容疑者の中には前述の件でヘネシーに逮捕されたファミリーのメンバーや関係者が含まれていた。他にはヘネシーの殺害現場の近くに住んでいた靴屋、その靴屋の友人で果実の行商人、犯行時に現場から立ち去る姿を警察官に目撃された者が含まれていた。 さらに捜査委員会は2人の私立探偵を囚人に変装させて刑務所に送り込み、収監されている容疑者から情報を得ようとしたが全くの無駄だった。犯行を告白した者もいたが、精神を病んでいると判断されたためその証言は証拠として認められなかった。 一方で容疑者たちは裁判が始まる前に極めて厳しい世論に包囲されていた。全国の新聞が「ニューオーリンズに多数のマフィア」、「1100人のダゴの犯罪者」などと書き立てた。複数のショットガンが犯行現場の近くから発見された。その中に含まれていた前装式のショットガンはニューオーリンズやアメリカ南部で一般的に使用されているものだが、警察官はイタリア系がよく使うものだと主張した。地元の新聞はこれらのショットガンがイタリア製だと報道したが、実はアメリカ製であった。 人気者であったヘネシーの死は市民の過激な行動に拍車をかけ、10月17日には刑務所に潜入して容疑者を銃撃する者まで現れた(被害者は首を撃たれたが命を取り留め、銃撃犯は懲役6ヶ月の刑を宣告された)。
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