抗米救国闘争とは? わかりやすく解説

抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:55 UTC 版)

ベトナム民主共和国」の記事における「抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975)」の解説

米軍戦闘部隊派兵先立ち1965年2月7日から北ベトナムへの集中爆撃北爆)を開始し北ベトナム全域ベトナム戦争戦火さらされることになった。これを受け、ベトナム民主共和国ソビエト連邦から重火器軍事顧問中華人民共和国から軽火器軍事顧問受け入れ活発化させ、南ベトナム解放民族戦線通じたベトナム人民軍南ベトナム派遣本格化させた。同時に攻撃対象ベトナム共和国軍からアメリカ軍SEATO連合オーストラリアタイフィリピンニュージーランド)軍・及び韓国軍にまで拡大しベトナム戦争本格的な戦争へ発展させた。ただし、1967年頃までは米軍対ゲリラ戦略が功を奏し解放戦線側が劣勢になることもあった。 1968年ベトナム人民軍事態打開すべく、解放戦線と共にテト攻勢敢行し、ベトナム共和国グエン・バン・チュー政権転覆目指した。攻撃共和国政府根底から揺さぶったものの体制転覆には至らず、むしろ解放民族戦線戦闘能力大打撃受けたため、以降解放戦線側の主戦力はベトナム人民軍が担うこととなった。しかし一方で、この攻撃は「ベトナム戦争終結間近」と知らされていたアメリカ社会大きなショック与えアメリカにおける反戦運動激化させるきっかけとなった。翌1969年には建国以来指導者であるホー・チ・ミン死去したが、指導労働党第一書記レ・ズアン継承され混乱生じなかった。また、同年中に南ベトナム解放民族戦線中心とする南ベトナム共和国臨時革命政府樹立させ、南ベトナムにおける反政府勢力強大であることを世界示した1973年ベトナム民主共和国はアメリカ・ベトナム共和国パリ協定締結し米軍始めとする外国軍南ベトナムから撤退させるとともに南ベトナム共和国を「南ベトナム政府」として国際的に認知させることに成功した。その一方で米軍南ベトナムへ再介入する可能性ベトナム再統一のための新たな全国選挙備え民主共和国ベトナム共和国存在受け入れることを暗黙のうちに認めた。だが、米軍介入可能性がないことが分かると、1975年1月ベトナム民主共和国パリ協定破棄して軍事攻勢起こし3月には猛攻撃開始、約6週間南ベトナム軍壊滅させた。1975年4月30日ベトナム人民軍南ベトナム解放民族戦線軍はサイゴン占領しベトナム共和国政府無条件降伏させた(ベトナム戦争終結)。

※この「抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975)」の解説は、「ベトナム民主共和国」の解説の一部です。
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