抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975)
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「ベトナム民主共和国」の記事における「抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975)」の解説
米軍は戦闘部隊の派兵に先立ち、1965年2月7日から北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始し、北ベトナム全域がベトナム戦争の戦火にさらされることになった。これを受け、ベトナム民主共和国はソビエト連邦から重火器や軍事顧問、中華人民共和国から軽火器や軍事顧問の受け入れを活発化させ、南ベトナム解放民族戦線を通じたベトナム人民軍の南ベトナム派遣を本格化させた。同時に、攻撃対象をベトナム共和国軍からアメリカ軍・SEATO連合(オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランド)軍・及び韓国軍にまで拡大し、ベトナム戦争を本格的な戦争へと発展させた。ただし、1967年頃までは米軍の対ゲリラ戦略が功を奏し、解放戦線側が劣勢になることもあった。 1968年、ベトナム人民軍は事態を打開すべく、解放戦線と共にテト攻勢を敢行し、ベトナム共和国のグエン・バン・チュー政権の転覆を目指した。攻撃は共和国政府を根底から揺さぶったものの体制転覆には至らず、むしろ解放民族戦線の戦闘能力に大打撃を受けたため、以降の解放戦線側の主戦力はベトナム人民軍が担うこととなった。しかし一方で、この攻撃は「ベトナム戦争の終結は間近」と知らされていたアメリカ社会に大きなショックを与え、アメリカにおける反戦運動を激化させるきっかけとなった。翌1969年には建国以来の指導者であるホー・チ・ミンが死去したが、指導権は労働党第一書記のレ・ズアンに継承され、混乱は生じなかった。また、同年中に南ベトナム解放民族戦線を中心とする南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立させ、南ベトナムにおける反政府勢力が強大であることを世界に示した。 1973年、ベトナム民主共和国はアメリカ・ベトナム共和国とパリ協定を締結し、米軍を始めとする外国軍を南ベトナムから撤退させるとともに、南ベトナム共和国を「南ベトナムの政府」として国際的に認知させることに成功した。その一方で、米軍が南ベトナムへ再介入する可能性とベトナム再統一のための新たな全国選挙に備え、民主共和国はベトナム共和国の存在を受け入れることを暗黙のうちに認めた。だが、米軍再介入の可能性がないことが分かると、1975年1月にベトナム民主共和国はパリ協定を破棄して軍事攻勢を起こし、3月には猛攻撃を開始、約6週間で南ベトナム軍を壊滅させた。1975年4月30日、ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線軍はサイゴンを占領し、ベトナム共和国政府を無条件降伏させた(ベトナム戦争の終結)。
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