抗争と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 07:46 UTC 版)
しかし17世紀に入ると、新教国オランダやイギリスも七つの海に進出を始め、ポルトガルと競合するようになる。特にオランダはスペインに対する独立戦争を展開しており、当時スペインと同じ君主を戴いていたポルトガルのガレオン船を拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新教国オランダの反ポルトガル陰謀の結果であると言えなくもない。このため17世紀後半以後ポルトガルのアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18世紀にはブラジルで金が盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703年にイギリスと結んだメシュエン条約は、結果として金の流出を招き、ポルトガル本国には、それ程、経済的な恩恵を与える事が出来なかった(非公式帝国)。 19世紀になるとブラジルの金生産も低迷し、ブラジル植民地(英語版)自体が独立を達成してポルトガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポルトガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラ、モザンビークなどのアフリカ植民地とインドのゴアとディウ、マカオとティモールなどだった。 これらの植民地も第二次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発した(マカオの場合は一二・三事件による中国とポルトガルの取引で戦火を逃れたが、インドの植民地は1961年12月にインド軍の武力侵攻(英語版、ポルトガル語版)により制圧された。)。最終的に1974年のカーネーション革命をきっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。
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