抗争の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 08:21 UTC 版)
同じ10日、山口組は、大阪市東淀川区十三西之町の旅館を対明友会戦争の作戦本部とし、田中・中川、さらに若頭補佐・山本広が集まって作戦会議を開いた。その最中に、諏訪から「姜昌興が詫びを入れてきているので、自分に仲裁を任せて欲しい」との申し出があったが、山本広は諏訪の申し出を拒否。 同日夕方には桂木正夫、中川組組員・市川芳正、安原会会員・佐野晴義、地道組組員・福田留吉、石井組組員・平尾国人など50人が、前線本部となっていた大阪市南区炭屋町の旅館に集結。全員が拳銃を持参していた。 12日午前8時、山口組側が、大阪市西成区西荻町のアパート「清美荘」にいた明友会幹部・李猛を部屋ごと包囲。李はアパートの自室のドアにバリケードを築いて立てこもったものの、中川組幹部・正路正雄(のちの三代目山口組若頭補佐)が窓越しに李を銃撃し腹部に重傷を負わせた。 これに対し明友会も19日夜に宋・韓ら6人が、大阪市南区河原町で加茂田組組員・前川弘美ら3人を拉致、布施市足代のアパート「有楽荘」に連行しリンチを加えた。これを聞いた姜は、宋・韓らに拉致した3人の解放を指示し、20日午前0時頃に3人は西成区山王町の加茂田組事務所に戻った。事態を受け、加茂田組・加茂田重政組長は組員と武器を集め、事態の急変を察知した西成警察署の包囲もすり抜けて、南区大和町に集結。午前6時に加茂田と加茂田組組員15人で「有楽荘」を襲撃し、明友会組員・山岸襄を射殺、李義雄の肩を切って重傷を負わせた。 終に21日に至り、姜会長以下明友会幹部15人が指を詰め、8月23日に箕面市の「箕面観光ホテル」で山口組と明友会の手打ち式が行われた。山口組からは、中川・田中、柳川組・柳川次郎組長が出席。明友会側は、姜と南一家許万根組長が出席した。仲裁人は、別府市の石井組・石井一郎組長だった。名目的には手打ちだったものの、明友会側が幹部15人の断指した指を持参するなど、実質的には明友会側の全面降伏に等しかった。
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