打ち出される振興策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 04:57 UTC 版)
「南関東公営競馬」の記事における「打ち出される振興策」の解説
1983年には大井で特別区公営競技振興対策協議会が、1984年に川崎でも競馬存廃検討委員会が組織される状況を受け、南関東公営競馬でもいくつかの振興策が打ち出された。 昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、浦和競馬場での6枠連勝単式馬券の復活、大井における電話投票の開始などがその例である。そして1986年7月31日には「大井競馬場の総合レジャーランド化」「イメージチェンジ」を目指し、大井で日本初となるナイター競馬が開催された。また1988年には川崎と船橋の間で相互場外発売が始まり、1998年までに4場間での全開催場外発売が実現した。1987年には、都心部の場外としてofft後楽園が開設されている。 競走面では、ホスピタリテイが「ハイセイコーの再来」と騒がれ中央競馬で活躍したのを皮切りとし、1985年の地方競馬招待競走をテツノカチドキが制すると、そのテツノカチドキを東京記念で破りジャパンカップへと出走したロツキータイガーがシンボリルドルフの2着となる大健闘。その後も中央競馬へ移籍し平成三強の一角を担ったイナリワンや、牝馬ながら南関東三冠を制したロジータといった活躍馬が出現している。また1985年には川崎の全日本3歳優駿、全日本アラブ争覇が地方競馬全国交流に、そして1986年からは帝王賞が距離を2000mに短縮した上で中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となるなど、他地区との交流も進展した。笠松競馬所属のフエートノーザンが1989年の帝王賞を制したほか、中央競馬側で地方競馬所属馬に解放されたオールカマーでは大井・赤間清松厩舎所属のジョージモナークが勝利を納めている。そのほか、東京大賞典を目指して岩手競馬より短期移籍で挑戦したスイフトセイダイや、カウンテスアップ、ダイコウガルダン、スルガスペインなど、地方競馬の他地区から有力馬が南関東へと転入して活躍した。 一方で、アングロアラブ競走馬はその在厩数が年々減少していった。かつては全日本アラブ大賞典と並び立った川崎のアラブチャンピオンが1985年を最後に廃止されるなど、競走面での縮小も続き、1993年には、南関東アラブ三冠を構成していた千鳥賞、アラブ王冠賞も廃止されている。北関東から転じてサラブレッドを相手に気を吐いたトチノミネフジらの活躍馬も出たものの、中央競馬が1995年限りでアングロアラブ競馬を廃止したのと間を置かずして、大井が1996年限りでのアングロアラブ競走からの撤退を発表。1996年には他3場もアングロアラブ系の重賞競走を全廃し、98年より3歳馬の新規入厩を停止。1999年をもって、アングロアラブによる競走は南関東から姿を消した。
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