戦役開始時における状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「戦役開始時における状況」の解説
1745年春の各国の外交は、プロイセンにとって大変厳しい状況に、一方のオーストリアにとってはシュレージエンを奪回するのに大変都合の良い状況になっていた。 1744年のベーメン侵攻が完全な失敗に終わると、大王はすぐイギリスに働きかけて和平の可能性を探り始めた。もちろんシュレージエンはプロイセンが保持したままというのが大王の条件だったが、プロイセンから和約を破っておいて、戦況がオーストリア優位に傾いている状況でのこの交渉は当然うまくいかなかった。それどころか1月8日には、イギリス、オランダ、ザクセン、オーストリアの四カ国によるワルシャワ条約が成立し、プロイセンを包囲攻撃する態勢が作られていた。この条約は、ザクセンを完全にオーストリアの味方にし、オーストリアの側に立って戦う代わりにイギリスとオランダから資金援助が与えられるという内容だった。ただ四カ国同盟とは言ってもイギリスとオランダに対プロイセン戦に兵力を回す考えはなく、実質的にはザクセンの戦力が加わることがはっきりしたことだけが成果だった。 1月20日、かねてより健康を害していた皇帝カール7世が戻ったばかりのミュンヘンで死去した。神聖ローマ皇帝を援助するというのがプロイセンとフランスが戦争で掲げていた題目で、両国は大義名分を失うとともに、皇帝の後継ぎマクシミリアン・ヨーゼフがまだ幼少であり、戦況不利であることを考え合わせると、皇帝位がハプスブルク家に戻る公算が大きくなった。ハプスブルク家を皇帝位から引きずり降ろして帝国への影響力を失わせるのがフランスのそもそもの戦争目的であり、それが元に戻ってしまうのを惜しんだフランスはザクセンに働きかけてアウグスト3世を皇帝に推し、あわせてザクセンを味方に引き入れようとした。しかしこの計画はすぐに失敗した。プロイセンもこれを機会にイギリスにフランツ・シュテファンへの投票を約するという条件で和平斡旋を依頼したが、やはり断られた。 オーストリアはバイエルンを早期に戦争から脱落させるために冬の間から部隊を動かしており、春になると強力に攻勢に出て連合軍を後退させミュンヘンを占領した。その結果、バイエルンはオーストリアへの請求権を全て放棄して単独講和であるフュッセン条約が成立し、オーストリアはプロイセンに戦力を集中させることができるようになった。フランクフルト同盟は雲散霧消し、プロイセンはドイツに友邦が一つも居なくなった。 フランスは、すでに1743年頃から皇帝への支援を打ち切りたいと考えるようになっており、ドイツ方面での活動に消極的になっていた。1744年12月に、ミュンヘンからベルリンへ作戦調整のため向かっていたベル=イル元帥がイギリス軍によって拘束され、イギリス本島へ護送される事件が発生しており、継承戦争の立案者で帝国への軍派遣を強く訴えてきた彼の不在は、フランス宮廷がドイツ方面作戦について消極論に染まるのをさらに助長した。そこへバイエルンの戦争脱落が決まったために、フランスはドイツへの興味をほとんど失い、フランドルやイタリア方面に注力する姿勢を示していた。これは事実上、プロイセン単独でオーストリアと戦わなければならないということだった。 さらにプロイセンにとって悪いことに、ロシアがオーストリア側に支持を寄せる姿勢をだんだんと明らかにし始めていた。大王はロシアの好意的中立を獲得するために工作を重ねてきたが、オーストリア、イギリスともにロシアを味方に引き入れること力を入れており、後者が勝った結果となった。大王はこのような状態で戦役を始めたのである。
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