徳川宗家による外交事務代行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「徳川宗家による外交事務代行」の解説
「徳川家(徳川宗家)の政体(江戸幕府)」は大政奉還の後から、日本政府の外交事務は「徳川家の政体(幕府)」と「天皇家の政体(朝廷)」のどちらで取り扱うのかと、各外国公使から頻繁に問い合わせられていた。慶喜はみずからがかねてからの志であった大政奉還をした以上「天皇家の政体(朝廷)」が日本政府として外交事務をつかさどるべきだと考えていたが、これまで日本の公儀としてあらゆる政治的実務をつかさどってきたのは「徳川家の政体(幕府)」であった一方、「天皇家の政体(朝廷)」側にはまだその準備がまだ整っておらず、外交上の実務経験や心構えも不足しているからには、いますぐ外交事務をおこなうのは難しいだろうと天皇家を思いやっていた。慶喜には、水戸徳川家代々の「尊王の大義」で母方(有栖川宮家)の主家に当たる天皇家を立てる必要があり、その尊王主義の手前、新政体が発足間もない天皇家側にはまだ政治的能力がないと直接正直に外国公使らへ打ち明けて語るのも難しい事情があった。また、慶喜は、彼と同様の認識であった明治天皇(当時16歳)の摂政・二条斉敬から内々に、「ただいま朝廷(天皇家の政体)では外国人らを接受することはできそうにないので、徳川家(徳川宗家)には気の毒だが、大政を奉還される前のとおり、外国公使らを応接して下さい」との外国公使・接受代行の依頼を受けていた。そんななか二条城を出て、大坂城に入った慶喜は、12日大坂城黒書院へフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダ各国公使らを集め、各国との条約の締結や外交事務は、唯一の公式政権として徳川宗家が一時的に取り扱う旨を説明した。 この頃、フランス公使・レオン・ロッシュが「徳川家(徳川宗家)が政権をお持ちになっているあいだ、フランス側は飽くまで貴家へお味方させていただくつもりですが、政権を奉還(大政奉還)なさった以上は、これまで通りお味方させていだくのは難しいかと存じ上げます」と、旧幕府側へ申し出た。このため、幕閣の一人として諸外国と直接外交を行ってきていたもと老中・外国事務取扱(外交官)の丹波亀山藩主・松平信義が、「いまご当主(徳川宗家主、慶喜)が外国の助けを失っては一大事でございます」と、慶喜に朝廷(天皇家の政体)からの外交権委任状をフランス側へ示す事を勧めた。実際は徳川宗家当主で(前)内大臣・慶喜が内々に(まだ当時16歳で十分な実務能力を持たない)明治天皇の摂政・二条斉敬から依頼を受け、日本政府側として外交事務を一時代行する予定だったが、松平信義が勧めている委任状の内容は「天皇家(朝廷)からの委任で」徳川宗家が外交事務をつかさどる、とわずかな事務手続き上の偽りを含んでいた。慶喜はこの委任状の事務手続き状の偽り(摂政個人からの内々の依頼と、天皇家の政体からの公式の外交権委任として勅許があった事実の違い)を厳格にみて、松平信義にそのような文書を朝廷からわざわざ取り付けたりロッシュへ渡したりすることを許さなかった。しかし、松平信義はロッシュの説得にはやむを得ない措置と考え、密かに作った自作の外交権委任状を外国人へ示した。
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