影響を受けたミュージシャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
「吉田拓郎」の記事における「影響を受けたミュージシャン」の解説
洋楽の原点 洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった。 ボブ・ディラン 楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している。 "フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫び回ったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという。日本におけるボブ・ディランの最大の普及者でもある。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している。 高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である。 山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ (Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという。 パクリとアンチテーゼ 特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている。 デビュー当時、東京にカレッジ・フォーク、関西に関西フォークがあったため、「広島のフォークソングがあったっていいじゃないか」という強い思いがあった。関西フォークは元々が嫌いだったから、関西フォークを研究し、関西フォークは、"私たち""ぼくたち""きみたち"という歌詞が多いことに気づき、それで、"私""ぼく""きみ"という私的な、個的な歌詞の歌を作ろうと決めた。『イメージの詩』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している。
※この「影響を受けたミュージシャン」の解説は、「吉田拓郎」の解説の一部です。
「影響を受けたミュージシャン」を含む「吉田拓郎」の記事については、「吉田拓郎」の概要を参照ください。
影響を受けたミュージシャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 16:54 UTC 版)
「エッラ」の記事における「影響を受けたミュージシャン」の解説
自身のFacebook上では、ミザリー・シグナルズ、ボーン・オブ・オシリス、ペリフェリー、メシュガー、セイオシン、ビトウィーン・ザ・ベリード・アンド・ミー、ザ・コントーショニスト、ホープスフォール、ベール・オブ・マヤ、シークレット・アンド・ウィスパー、グラスジョーなどに影響を受けたと公言している。
※この「影響を受けたミュージシャン」の解説は、「エッラ」の解説の一部です。
「影響を受けたミュージシャン」を含む「エッラ」の記事については、「エッラ」の概要を参照ください。
- 影響を受けたミュージシャンのページへのリンク