引退、そして指導者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 10:08 UTC 版)
1984年8月のロサンゼルス五輪では初戦で韓国の安柄根と対戦した際に、肋軟骨を負傷したのが影響してか注意を取られるなどして敗れ5位に終わった。また、1984年5月と1985年7月の全日本選抜体重別選手権大会はいずれも3位だったほか、特に1985年4月の講道館杯では当時世田谷学園高校3年になったばかりの古賀稔彦に敗れてこちらも大会を3位で終えるなど、世代交代を印象付ける形となった。 この間、東海大学大学院から和歌山県教育委員会を経て、1985年に東海大学の姉妹校である国際武道大学の柔道部ヘッドコーチに就任すると、これを1990年3月まで務めて多くの後進の指導に当たった。同年4月に柔道部の副監督として東海大学に戻り、1993年12月からは1年間のイギリス留学も経験している。1996年には柔道部監督を任ぜられたが、この頃から東海大学の暗黒時代を迎え、1997年から2001年までは全日本学生優勝大会のベスト4にすら残れなかった。持ち前の真面目な性格ゆえ、中西は「勝てない時には全ての責任を感じていた」と述懐する。進退について真剣に悩む中西を思い留めさせ、また支えたたのは、妻・美智子からの叱咤激励と、長男の努の「大きくなったら、パパの代わりに僕がその大学をやっつけてやる」という言葉だったという。 2004年に東海大学の柔道部監督を再度引き受けると、同年の全日本学生優勝大会には大鋸新や今井敏博、増渕樹といった選手を主力に据えて出場。高井洋平を擁す国士舘大学との決勝戦では、三将の村上和幸が裏投を決めて東海大学は実に8年降りの日本一に輝き、この瞬間に部長の山下泰裕とがっちり握手を交わす中西の写真が多くの新聞や雑誌に掲載された。以後は東海大学の黄金時代を築き上げ、特に2008年から2014年まで他を寄せ付けず前人未到の7連覇を果たしている。現役時代に培った事を現役選手達に還元すべく永らく指導者生活を続ける中西は、「自分が五輪で負けた時には挫折感があったが、やり残した事を中村兼三や井上康生がやってくれた」「彼らが五輪や世界選手権大会を獲ってきてくれて、自分の失敗経験も生きたかな、と思えるようになってきた」と、自身の指導者人生を謙虚に振り返る。 現在は、東海大学体育学部武道学科教授兼柔道部部長を務め多くの後進の指導に汗を流す傍ら、競技者としては全日本柔道形競技大会では神奈川県警察の松本勇治7段と共に古式の形を披露し、2018年・2019年と連覇を果たしている。
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