建造と運用
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初期に建造された沖乗船として、唐船造りには寛政11年建造の神風丸(1,460石積み)がある。この神風丸の絵図はこれ以前の天明6年(1786年)に建造された三国丸の帆装を和式の帆柱4本に変更したものと類似している。また似関船も寛政12年に幕府より5艘の建造を命じられた高田屋嘉兵衛が、三国丸を建造した尼崎屋へ注文をしており、双方に三国丸の影響が見られる。なお初期の似関船として、寛政11年に幕府が購入した通常の弁才船を総矢倉へ改装した凌風丸(1,400石積み)がある。 当初、幕府は来航する異国船が外航船であることに幻惑され唐船造りに注目していたが、その後の沖乗船は次第に似関船が中心になる。その理由として、文化3年(1806年)から翌年にかけて発生したロシア船の襲撃事件(文化露寇)後の文化5年2月の松前奉行による上申書には、唐船造りは水主が操船に不慣れで不便であるとして似関船建造を提言し、また同年9月に奉行より唐船造りの建造・運用を打診された嘉兵衛も双方ともに経験がないと難色を示している。この方針は以前からのもので、例えば直轄当初は13艘あった唐船造りは文化4年末には1艘に激減しており、何らかの問題があったことを伺わせる。弁才船を原型とした似関船の耐候性の高さは、西洋船導入を主張して唐船造りの神風丸をも批判した本多利明が、享和元年(1801年)の蝦夷渡海時に乗船した似関船の凌風丸を高く評価した点から裏付けられる。
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建造と運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:54 UTC 版)
1994年から2014年にかけて、ニジニ・ノヴゴロドのヴォルガ造船所で11隻、ウラジオストクのボストチナヤ造船所(英語版)によって1隻の合計12隻が建造された。そのほかに、輸出用として、4隻が1994年から1995年にかけて建造された。輸出仕様の4隻は、1隻がエストニアに、3隻がアラブ首長国連邦に売却された。
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