建国当初~1950年代 朝鮮戦争と共産化
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「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「建国当初~1950年代 朝鮮戦争と共産化」の解説
「朝鮮戦争」および「千里馬運動」も参照 朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連の朝鮮占領軍が監督する中で、1948年9月9日に独立を宣言した。 建国の翌年の1949年6月30日に北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し、朝鮮労働党が成立した。建国当初の朝鮮民主主義人民共和国は、まだ金日成首相への権力集中が果たされておらず、満洲(中国東北部)でパルチザン闘争を行っていたとされる金日成の満州派の他、朝鮮北部甲山郡を根拠地に満州派と共に東北抗日聯軍を構成し普天堡の戦いを共に戦った縁で当初関係良好・準同盟関係だった甲山派(領袖は甲山工作委員会・朝鮮民族解放同盟を結成した朴金喆)、日本統治時代に朝鮮地域内で抵抗運動を続け戦後は南朝鮮労働党を結成していたいわゆる南労党派(領袖は朴憲永)、中国共産党、八路軍に所属し、抗日闘争を共闘していたいわゆる延安派、ソ連に渡りソ連国籍を有しているソ連派などの勢力に分かれていた。 1950年6月25日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の大韓民国(韓国)侵攻(南進)によって勃発した朝鮮戦争は、当初韓国の李承晩大統領を釜山に追い詰めるまでに優勢だった北朝鮮の朝鮮人民軍をダグラス・マッカーサー率いる国連軍が朝鮮半島北上によって押し戻し、一時期大韓民国国軍は中朝国境の鴨緑江にまで達したが、この国連軍北上に対抗して成立間もない中華人民共和国から中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)が派遣され、戦争は朝鮮半島全土を荒廃させた後、1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定によって軍事境界線(38度線)を挟んでの朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国との休戦が実現した。この朝鮮戦争では北朝鮮による武力統一こそ実現しなかったものの、この際に軍事委員会委員長となった金日成首相の権力を強化させ、甲山派・延安派・ソ連派と連携協力して最初の政敵とされた南労党派の打倒へと向かわせた。なお、朝鮮戦争の際の中国の介入により、中朝連合軍が結成された際、中朝連合軍の彭徳懐司令官は金日成首相を差し置いて延安派の朴一禹を中朝連合軍の副司令官に任命している。 しかし、1956年のフルシチョフ第一書記によるソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判(個人崇拝も批判の対象となった)は、金日成の個人崇拝を進めようとする北朝鮮にも影響を与え、これ以降、朝鮮労働党内の延安派、ソ連派が金日成の批判を強めた。こうした事態に対して金日成は甲山派と共同で、強権的に政敵を逮捕・除名(8月宗派事件)することで乗り切り、1950年代末までにはほぼ当初の政敵派閥を駆逐した(最後に残り、後に対立する甲山派の粛清・駆逐は1967年に行われた)。この間、農業の集団化し、産業の国有化が進められ、1956年より「千里馬運動」が開始された。1950年代末までに社会主義経済体制が構築されたといえる。
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